マニアとスペシャリストの違いは何か、と最近考えている。
社会的に専門家(=スペシャリスト)とされているかどうかとか、それを稼業にしているかどうかとか、そういう外的なことではなくて、もしもメンタリティによって区別できるのならどのようにされるのだろうか。
どうでもええやん、といえばどうでもいい。でも気になってしまった。
今週末は1ヶ月ぶりに休みという休みだったので、心身ともに休むために帰省した。
漫画「ラストイニング」を読んで興奮したり(27巻での大宮の一打から鶴ヶ島さんの登場の場面)、スーパー銭湯(満殿の湯)へ行って寝転び湯で周りの人に迷惑がかからないように腹筋をしたり、amazonで注文して届いていた「思想地図β」を少し読んだり(『神の都市』を読んだ。読んだが、これに示唆を受けるように僕はできていないようだった)、これもamazonで注文していたTHE BAWDIESのバンドスコアを見てギターの練習をした(下手くそなのでまだリズムがつかめていない)。僕の最初の構造設計の師匠である安田さんに会って田中さんがまた太ったということを聞いたり、5ヶ月ぶりに髪の毛を切りに行ったりもした。今年初めて競馬をして(東京新聞杯)、いつものように外したりもした。(余談ですが、今日ここに記事を書こうと決めたのは、安田さんとお話したときも、美容師さん(水越さん)とお話したときもブログの話が出たから)
自宅から多度神社まで走ったりもした。
走り始めたのは土曜の5時過ぎでまだ明るかったが、多度神社を経由して上之郷の堤防にさしかかるころにはかなり暗くなっていた。
ここには街灯もない。
両目合わせても視力0.2程度の僕の視界では、普段より物はおぼろげに映っている。
堤防に沿って流れる肘江川、砂州に立つ中背の木々、東の方の揖斐川の向こうに見えるのは千本松原の松たちだ。数百メートル向こうには二郷橋がある。僕の視界では、それらが浅い闇の中にのっぺりと貼り付いたシルエットに見える。いくつかの鉄塔も見える。鉄塔には赤色の光が点滅している。鉄骨で組まれた人工的な形が、他の自然物の中に溶け込みながらも異質さを残しており、これらのあいまった景色は幻想的といってもいいくらいだ。
一人の人間ともすれちがった。たぶんこの辺りの見知らぬじいさんだろう。僕の視界の中で動くものは、このじいさんだけだ。とても不気味に映った。
何となく、村上春樹の“井戸”を思い出した。
ところでマニアとスペシャリスト(=専門家)の違いは何だろう。僕の中では実感としても理屈としても整理されたものは暫定的にさえない。別に貴賎を設ける意図はないが、一般的にマニアという言葉より専門家という言葉の方が敬意を込めて使用される。
マニアとスペシャリスト(=専門家)と対置させてみたが、近所には職人やプロという言葉もいる。
マニアかスペシャリストかは分からんが、今日お会いした安田さんは建築構造設計のプロだし、髪の毛を切ってもらった美容師(スタイリストという言い方が正しいのかよく分からないけど)の水越さんもプロには違いない。たぶんマニアというわけでもないだろう。ではスペシャリストかというと、それはよくわからない(僕の語彙にスペシャリストの意味が登録されていないので)。
どうしてこんなことを考えているかといえば、端は先々週の1月25日に出席させてもらった関西建築技術研究会で名古屋大学の福和伸夫先生の話を聞いたことだ。福和先生の演題は『耐震工学の説明力向上のための「見える化」と地震時挙動の理解』というものだった。福和先生は最近のお仕事柄、建築の専門でない一般の方々に説明する機会が多いという。そんな状況を十分に体験された先生が僕たちに言われた(と僕は解釈、記憶している。間違っていたらすみません)。“皆さん(構造設計技術者)は専門馬鹿になってはいないか。そんなことでは専門外の人に耐震の大切さを伝えられない。それは自分たちの首を絞めることにもなっている。”
先生は「馬鹿」という言葉をあえて使われたのだと思うのだけど(「あまりに専門分野に偏りすぎている」という言い方だって当然あるのだから)、これがここに出席されていた構造設計者としての先輩方にはどう聞こえたのかわりと気になった。大手組織設計事務所の方にも遠慮なく、というよりはあえてといってもいいかもしれないくらいの調子でそう言われていた。揶揄されていると思っても不思議ではない。先輩方はどう思ったのだろう。
建築の世界は狭い。設計の世界はまた狭い。構造設計の世界はもっと狭い。建築といわずとも、どこの世界だって狭い(何とかの世界、と捉えることがすでに狭い、ともいえる)。そして深い。そしてどこの世界にもその深部まで潜り込んだ人がいる。深部まで潜り込んだ人というのは言うまでもなく、専門的知見、知識、経験を備えた人のことだ。
けれどその人たちがすべて専門家であるかというと、僕は違和感を覚える。マニアだって専門的知見、知識、経験を備えているのだから。最初に言ったが、社会的にどうとか、お金をもらっているかどうかなどは別の話としている。
こうなってくると、これらを区別するひとつの線は、専門でないことに対する違いとして設けることができると思う。専門でないことに対して開かれているかどうか。専門的分野を開かれた視点で照明できるか、あるいは専門的思考を転回させて専門外のことを考えられるかどうか。内田樹センセイがいうところの“教養”を備えており、その“教養”の上に(あるいは中に)、専門的なものがあるかどうかなどが、線になりうると考えられる。
『知に働けば蔵が建つ』の中で
「教養は情報ではない。教養とはかたちのある情報単位の集積のことではなく、カテゴリーもクラスも重要度もまったく異にする情報単位のあいだのあいだの関係性を発見する力である。雑学は「すでに知っていること」を取り出すことしかできない。教養とは「まだ知らないこと」へフライングする能力のことである」
といっている。
僕はまだまだ専門的知見、知識、経験が不足していてマニアとしても自認できません。
でもやがては「専門外のことなので分かりません」というよりも、
「専門外のことなので分からないことがありますが、私が思うには…」というようにならなければならない。
そう思うのでした。
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