ツイッターのTLで「今、建築について思うこと」という題で新建築増刊号が出たことを知り、500円という安価なこともあって書店に行って購入した。ここでは174人の“建築に関係の深い方々”(本文より)が各々800字以内で表題について寄稿している。みんな様々である。志向や置かれている状況が伺える。
僕は依頼を受けていないけど(当然である)、いい機会だと思って800字以内で書いてみた。
昨日でちょうど3ヶ月。
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ちょうど3ヶ月前、大阪ではちょっとめまいかも、というくらいの微弱でゆったりとした揺れだった。ネットを見てみると東北が恐ろしいことになっていることを知った。激しく動揺した。仕事中だったがそれどころではなかった。
当日も翌日の土曜も、そして日曜も呆然とテレビに囚われた。いや、惹きつけられたのかもしれない。底も縁も見えない穴に、でも飲み込まれていくのは分かる。そんな気分だった。
テレビでは、非現実的に建物が、街が確かに飲み込まれ、さらわれていった様が映し出された。はじめは現状や経過を伝えるのに精一杯だったメディアも、自然そのうちに専門家やコメンテーターに復興への提言や思いを語らせるようになった。
建築構造設計修行中の身である僕は、地震や津波、それらの複合的な外力に対して「建物は」どうあるべきかについて考えを巡らせようとした。けれど何とも虚しい気分になった。その虚しい気分が考えを巡らせようとすることを拒んだ。職能としては考えるべきでも、あの何もかも圧倒的な映像が思考が定まるどころか立ち上がることさえ許してくれなかった。やがて気づく。僕の場合は「建物」という枠組みで今回のことに向き合ってはいけない。適切な言葉を見つけられないが、もっと自然な枠組み(=自らの周辺)で捉えた中のひとつである「建物」について考えるべきなのだ。
今の僕は何を思い、どうするべきだろう。大上段にいろいろとかざすこともできるかもしれない。でも現実的には学ぶしかない。建物について、街について、復興について。これは未曾有の災害ではあるけど、千年に一度の災害ではない。僕が生きているうちにまた起こってしまう可能性が十分にある。だが、僕(たち)は千年に一度の災害に、出来うる限りでしなければならない。そう思ったって直接的、表面的に何かが変わるわけではないが、それが実効的なのだ。僕が学んだひとつは、無力の意味だから。
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