現在27歳。2~3年前から、今まで読んだ本を再読したいと思うようになってきた。というか、これは再読するべきだなと思う本を(あくまで個人的に)見分けられるようになってきた。再読する理由のひとつは、他人にその本の魅力を語りたいから。
といってもあまり再読はできていない。
再読したい本のひとつは内田樹さんの「私家版・ユダヤ文化論」。今日、少しだけ読んでノートしてみた(理路を追ってみた)ので、ここにも記しておく。ちなみに水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」も久しく再読しなければならないと思っている。できてないけど。
1章の途中(~P36)までをノートします。
【はじめに】
本書で論じたいのは『なぜユダヤ人は迫害されるのか』という問題である。
この問題に対しては、さしあたりふたつの答えがある。
ひとつは、政治的に正しい答えで『迫害される根拠はない』というもの。しかし、根拠がないという答えは「人間はときに底知れず愚鈍で邪悪になる」という知見以上のものを私たちにもたらさない。これはすでに私たちが十分に知っていることである。
もうひとつは、政治的に正しくない答えで『迫害されるにはそれなりの理由がある』というもの。歴史的にはそのようないわば捏造的な理由によって反ユダヤ主義者たちは迫害を続けてきた。しかし、これを認めることは、これらの迫害に対して同意署名することになる。
つまり、どちらも採択することができない。
どちらも採択できないという状況でこの問題に接近する方法、それは問題の次数をあげる(問いの立て方をかえる)ことである。
つまり、『「ユダヤ人迫害には理由がる」と思っている人間がいることには何らかの理由がある』というように問いを設定し直す。
この問いの答えを得ることによって、ユダヤ人迫害の理由に迫る。
【第一章 ユダヤ人とは誰のことか】
何をもってユダヤ人というのか、ユダヤ人たちがどのような帰属感をもってユダヤ人として統合されているのか。
私たちにあてていえば、「日本人」という国民としての集団帰属意識がある。
私たちにとっての「国民」とは、地理的に集住し、単一の政治単位に帰属し、同一言語を用い、伝統的文化を共有する成員のことである。そう私たちは信じている。“信じている”というのは、これが普遍的なものではなく、「民族的奇習」だからである。
しかし、ジェイコブ・シフの例にみるように、そのような奇習にとらわれている限りユダヤ人のことは理解できない。彼はドイツ生まれのユダヤ系の銀行家である。アメリカ財界の大立者であったシフは、その莫大な財力を活かして「反ユダヤ」的な帝政ロシアと“同胞”のために、個人的な戦争を仕掛け続けた。このような日本人は想像に難い。
これは、私たち日本人が日本の政治単位や経済圏や伝統文化に結び付けられているのとはまったく異質なものによってユダヤ人たちは統合されていることを示す。
その「まったく異質なもの」は私たちの語彙には比喩的にも存在しない。
だが、ユダヤ人を、ユダヤ文化を論じるにあたって「ユダヤ人とは何か」を暫定的にでも定める必要がある。
「ユダヤ人」という語は、たとえば「日本人」や「九州男児」などに比べてその歴史的背景からあまりに深く多岐にわたる「含意(コノタシオン)」をもっている。
なので、ある人が「ユダヤ人は・・・」と語るとき、それは中立的・指示的には用いることができない。どうしてもその人の偏見や先入観から自由にはなれない。
だが、自分が用いている「ユダヤ人」の定義があくまで私的・暫定的なものに過ぎないという節度をふまえている限りではその定義は有効といえる。
そのような「私家版」の意味で、私は語義を定義することが難しい語の意味の境界線を確定するためのひとつの方法をもっている。
それは
『ユダヤ人とは何でないか』
という消去法を用いることである。
まず、ユダヤ人というのは、国民名ではない(単一の国民国家の構成員のことではない)。
なぜならユダヤ人は世界各地に散在しており、様々な言語を用い、様々な文化に生きているからである。
第二に、ユダヤ人は人種ではない。
なぜならユダヤ人を他の民族集団と差異化できる有意な生物学的特徴は存在しないからである。“鉤鼻”や“浅黒い肌”などといわれるが、それは歴史的な事情からである。
第三に、ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。
近代以前までは、ユダヤ人はユダヤ教徒のことであった。しかし、近代市民革命による「ユダヤ人解放」以後、相当数のユダヤ人がキリスト教に改宗したし、ニュルンベルク法とホロコーストは信教対象によらずユダヤ人はユダヤ人であることを止められないと教えたからである。
このような実体的な基礎をもたないのに、ユダヤ人は2000年にわたってそれを排除しようとする強烈な淘汰圧にさらされながら生き延びてきた。ここから推理できる結論は、危ういものではあるけれども、ひとつしかない。
それは、
ユダヤ人は「ユダヤ人を否定しようとするもの」に媒介されて存在し続けてきたということである。
言い換えれば、
私たちがユダヤ人と名づけるものは「端的に私ならざるもの」である。
ユダヤ人を語ることは「他者」の輪郭をおぼつかない手つきで描き出すことである。
それは自分自身を語ってしまうことになる。
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