テレビでちょくちょく見る古賀茂明さんが最近書いた『官僚の責任』。本屋で平積みされていたし、本人が現役の官僚ということもあって、読んでみました。ちなみに古賀さんの他の本は読んでいません。
本書からもっとも伝わってくるのは、古賀さんがほんとうに強く「官僚は駄目だ。変えなければいけない」と思っていることです。何が駄目か。それは、もしも「官僚」という生物種がいたらそのもっとも特徴的な行動習性は「省内(そして自分)の権益を最優先にする」と言えてしまうほどに、省内の権益(端的には天下り先の確保)に目がなく、そう行動してしまうということです。そのために無駄な団体が発生し、無駄な仕事が発生し、無駄なお金が使われる、まったく国や国民のためになっていない、だから駄目だ、というわけです。このことは別に古賀さんが言わなくても以前より久しく巷間で言われていたことですが、現役の官僚から本の形をとって、いくつも例をあげながら語られると多少は違ってきこえます。僕としては、ほんとうにそんなに駄目なのか、と疑問符を投げかけたくなるほど批判しています。たとえば次のようなものです。
【入省時点では将来ピカピカに輝くだけの能力を秘めていたはずの原石が、その後いっさい磨かれないどころか、鈍磨(どんま)していく場所-それが霞が関という場所なのである。まさしく霞が関は「人材の墓場」なのだ】(P141)
この“鈍磨”されていくというところに、古賀さんの霞が関の官僚(やその仕組み)に対する批判の根元があるように思えます。
でも、僕などはやっぱり不思議に思うわけです。ほんとうにそんなに駄目になっていくものなのだろうか。僕よりもはるかに優秀な(特に勉強においては)人たちがなぜそのようになってしまうのか。古賀さんは霞が関という組織の仕組みの構造的な欠陥を主にあげているし、もちろんそれも大きな要因なのだろうと思いますが、僕には“エベレストの話”がもしかしたらそもそもの(その構造的欠陥の)原因のひとつなのかもしれないと思えました。“エベレストの話”というのは僕が勝手に名前をつけたのですが、古賀さんがこう言っていることです。
【「官僚になるのは、山登りをする人がエベレストに登りたいというのと同じ」 最近、私はそう表現しているのだが、東大生が官僚を目指すのは、それが「もっとも困難だから」という理由が第一なのではないかという気がするのである】(P123)
この気持ちは分かります。だいたい僕もそうだったし、僕だけではなく多くの人がそうだったと思うけど、高校受験も、大学受験も手の届きそうな範囲でなるべく入るのが困難だとか入ったら偉いといわれているところに入ろうとします。そして僕は違ったけど、多くの人は就職もそういう行動傾向が維持されます。その時々に、やりたいことややらなければならないと思っていることがある人のほうが少ないのは現実だし、本人にとってはそれが是(あるいは成功)だとされているので、これは仕方がありません。だから、ほんとうは上の古賀さんのことばにはひとつつけくわえられていなければなりません。官僚になるのは【それが本人にとっては「もっとも達成困難な“成功”」だから】ということです。
とにかくそうしてどこかに入省して国家公務員になります。すると次は国家公務員としての「もっとも達成困難な“成功”」とは何か、となる。それは事務次官であり、天下りを含めた自らのための福利厚生を得ることであり、それらを達成するための権益獲得に奔走すること、というようになってしまう。「達成困難な」だけなら、それこそ公務員制度改革なんてその最たるものかもしれません。しかし、それは官僚としての“成功”ではない(とされている)わけです。官僚にとっての成功とは上に述べたようなことになっている。それが良くない。
じゃあなぜそんな成功のモデルが蔓延しているのか。それが霞が関の構造的欠陥によるものである。その構造的欠陥を古賀さんはこのようにいっています。
【年功序列、身分保障とともに、いったん入省したら未来永劫、所属が変わらない縦割りの組織構成(中略)各省のなかに自分たちの生活を守る仕組み、言い換えれば互助会ができあがっているのだ】(P168)
この成功のモデルとこの霞が関の構造的欠陥があいまってますます互いを強固にしていく。そういうふうに考えれば、官僚の方々には申し訳ないがたしかに駄目だし、公務員制度改革はぜひとも実現されてほしいと思います。
本書で古賀さんも触れていますが、僕は特に身分保障と縦割りが変えられるべきかなと考えます。もっといえば給料だってだいぶとさげてもいい気がします。多くの人が、報酬や保障を少なくすると優秀な人材が集まらないといいますが、そんなことはまったくないと思うからです。もしも公僕という理念に沿って、人材を募集そして育成するなら、それこそ報酬も保障も良くないのに突破困難な関門を通過してやってくる人がふさわしい。ついでにそれのほうが世間のうけもいい。つまり物事をいい意味で決めやすい。
霞が関は一体いつからどのように今のような猛烈にあちこちから批判を受ける対象になったのでしょうか。城山三郎『官僚たちの夏』ではそんなことはなかったように思うのですが。
最後に、古賀さんの語りっぷりには少し色めいたところというか扇動的な感じてしまうのですが、おおむね古賀さんの考えていることが実現していけばいいと思えました。けれど、第5章で【ちょっとかわいそうな人は救わない】(P173)という考え方で述べたこれからの日本がめざす方向性については、語り方があまりよくないのか違和感が残りました。
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