僕は足しげく地元へ帰っている。
今住んでいる大阪市から地元の三重県桑名市へ何かと帰っている。
何かと帰るのは何かと ―ゴルフとか麻雀とか酒を飲むとか― 誘ってくれるからで、ありがたいことである。
大阪にいるのだから断ってもいいのだけど、そういう誘いは極力断らない。
なぜ断らないのか。
僕はそれを自分の最後の拠り所とみなしているからだと自分では思っている。
自分が猛烈に絶望したり、果てには自失したときの最後の拠り所である。
自失はおろかそんなに深く絶望したことはないけど、そういうのがないと不安な気がする。
“最後の拠り所”はふわふわとしたものではなく、しっかりとしたものとしておきたい。
たしかな手触りのようなものを確保しておきたい。
そうじゃないと寄り掛かろうにも寄り掛かれない。
仕事に追われて地に足がつかず、なかばおぼろげな意識で暮らす日々。
仕事にそれなりに集中することと、しっかりとした足取りで日々を歩むということは別のことだと分かってきた気がする。
だから、そんな中で「ここには根をはれているような気がする」という感覚を与えてくれるところは大切にしたいと思っている。
ふわふわしていなくて、しっかりとした手触りがあるもの。
それを大げさに“たしかな現実”と呼んでみる。
先日、村上春樹『国境の南、太陽の西』を読んだ。
その中に現実についての記述がある。少し長いけど引用させてもらう。
― たとえば何かの出来事が現実であるということを証明する現実がある。
― 何故なら僕らの記憶や感覚はあまりにも不確かであり、一面的なものだからだ。
― 僕らが認識していると思っている事実がどこまでがそのままの事実であって、
― どこからが「我々が事実であると認識している事実」なのかを識別することは
― 多くの場合不可能であるようにさえ思える。
― だから僕らは現実を現実としてつなぎとめておくために、
― それを相対化するべつのもうひとつの現実を―隣接する現実を―必要としている。
― でもそのべつの隣接する現実もまた、それが現実であることを相対化するための根拠を必要としている。
― それが現実であることを証明するまたべつの隣接した現実があるわけだ。
― そのような連鎖が僕らの意識のなかでずっとどこまでも続いて、
― ある意味ではそれが続くことによって、それらの連鎖を維持することによって、
― 僕という存在が成り立っていると言っても過言ではないだろう。
― でもどこかで、何かの拍子にその連鎖が途切れてしまう。
― すると途端に僕は途方に暮れてしまうことになる。
― 中断の向こう側にあるものが本当の現実なのか、それとも中断のこちら側にあるものが本当の現実なのか。
こういうことを子供のときに、こういうことばにならなくても感じたことがある人はいると思う。
僕もそうだ。
「今僕が生きている世界では、僕以外の僕の周りはすべて演じられたものではないのか」と疑っていた。
CMもアニメも先生もともだちも家族も、僕をどこかへ連れてこうとする策略の一部ではないかと思うことがよくあった。
どうしてそういうことを思うのかと聞かれても困る。
それはそのままどうしてそのように問うあなたはそういうふうに思わないのか、という問いになる。
「だって当たり前じゃないか。周り全員がおまえのために動いているわけないだろ」
動いているわけないだろ、といえる根拠は何か。
たかだか生まれて数年の少し偏屈な子供には、たしかと思えるような現実はなかった。
でも年を重ねるうちに
「どうやらこの世界はそれぞれの人がめいめいに生きているとみて間違いなさそうだ」
と思うようになる。
すると今度は「それぞれがめいめいに生きているこの世界の中でたしからしいものはなんだろう」
と思うようになる。
僕のようなふつうの人たちは何かとよりかかって生きたい。
正確にはよりかかれる何かを常にそばにおいて生きていたい、のだと思う。
むかし読んだ養老孟司『唯脳論』に、
子供が自由に動き回るのは近くに親の加護を感じているときに限られると書いてあった(気がする)。
そういうものなのかもしれない。
森博嗣『すべてがFになる』ではこんなやりとりがある。
― 「先生、現実って何でしょう」
― 萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
― 「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考にあらわれる幻想だ」
― 犀川はすぐ答えた。「普段はそんなもの存在しない」
村上春樹『国境の南、太陽の西』から引用した先の文を読んだとき、この森博嗣の文も思い出した。
これらから僕が茫漠と思うのは、現実は実はわりとリアリティのないものである、ということ。
リアリティというのは手で触れて目に見えて匂いがして想像と知覚がおおむね一致するものとする。
でも現実は触れられないし、見えないし、匂わないし、だいたいよく分からない。
引用したように、現実はそれほどは強くない力で結びついた記憶の複雑な連鎖のようなもので、
一度どこかが断ち切れると連鎖としての体をなさず、
それこそ連鎖的に現実のたしかさを失っていくのかもしれない
なるべく複雑に強く結んでおきたい。
結ばれているかどうかを頻繁にたしかめたい。
だから僕は足しげく地元へ帰る、ということ。