代々木公園で「さようなら原発10万人集会」が開かれたというニュースを見た。
“サヨナラ原発”、そう口にしてみると、ガガガSPの『卒業』という曲を思い出した。
僕がたしか高校生のころに流行った曲で、もちろんこれは原発の曲ではないし、
社会情勢を風刺した曲でもない。秘め続けた恋心を歌った曲だ(と思っている)。
- さよなら さよなら さよなら
- 多分もう会うことはないよ
- 僕は君を卒業するよ 切ない思いとともに
途中を省略しているけど、この歌詞を思い出した。
今、原発反対派の方々にとっては、原発は忌み嫌い、排除すべき対象として認識されている。
もちろん反対派の人たち全員をくくることはできないけど、原発は悪であるという見方が主流だろうと思う。
けれど、これは正確な言い方ではない。
僕が言うまでもないけど、良い悪いという言い方をすれば、悪いのは原発ではなく人であり、表面的には直接の関係者だ。
だから原発が悪いわけではない(この言い方はいまやほとんど意味をなさないくらいに凝り固まっているけどこう言うしかない)。
犯罪者の凶器が包丁だったからといって、包丁が悪いわけではないのと同じことだ。
そう考えると原発はかわいそうなやつだ。
生みの親である人間に与えられた命令に粛々と従い発電していたのに、今や日本一の嫌われ者(の象徴)になってしまった。
働いていた時に感謝したことのない人たちが容赦のない非難を浴びせてくる。
約40年前、はじめて稼働したときに、よく動いてくれたと物言わぬ原発に礼をいった技術者がいたかもしれない。
その技術者は、原発に対して、こんな事態にしてしまい申し訳ないと謝ったかもしれない。
もちろんほんとうのところは知らない。
人間の欲望、あるいは好奇心によって利便のために生み出されたロボットが、やがて人間を攻撃してしまい戦闘になり、ロボットを破壊してしまうというのはよくある物語。破壊されるロボットを目にして、ロボットを生み出した博士はいたたまれない気持ちになる。
そんなよくあるストーリーが現実のものとなっている。
繰り返すが、そうみると原発はかわいそうなやつで、そういう気持ちをもって原発を思うと、
このガガガSPの『卒業』という曲は、今日の「さようなら原発10万人集会」にとって意義深い曲であるように思う(うまく言えないけど、何というか畏敬の念をもって原発を思うと、というような意味で)。
現実の「さようなら原発10万人集会」で坂本龍一さんはこう言ったようだ。
“たかが電気のためになんで命を危険にさらさないといけないでしょうか。子供を守りましょう。日本の国土を守りましょう”
大江健三郎さんはこう言ったようだ。
“私らは侮辱の中に生きている。政府のもくろみを打ち倒さなければならないし、それは確実に打ち倒しうる。原発の恐怖と侮辱の外に出て自由に生きることを皆さんを前にして心から信じる”
苛烈で啓発的な言葉だ。ここでは明確に原発自体が悪になっている。
他の壇上の方たちが何と言ったのか知らない。
原発を畏敬するという方向を指し示すことばはあったのか(たぶんなかったと思う)。
政府あるいは東電を敵とみなして、みんなを奮い立たせ、まさしく彼らのもくろみを打倒そうとするなら、大江健三郎さんのことばは適しているのだろう(そしてそのような部分も確かに存在するだろう)。
人間が悪いのに、一緒くたに原発まで悪くなってしまうように、原発にある種の畏敬の念を抱いたら、その背景の人たちにも(ひいては自分たちにも)そういう思いをもってしまいかねない。いつも僕たちは錯覚する。
でもまあ、ガガガSPに歌ってもらったっていいだろう。
- さよなら さよなら さよなら
- 多分もう会う事はないよ
- 君が強く心をつなぎ
- そして 今日も日が暮れていく
- さよなら さよなら さよなら
- 素直に喜べることは無いよ
- 僕は君を卒業するよ 切ない思いとともに
- また多分君を思い出す事があるだろう
- 過去の話になるには時間がかかるだろう
- あなたの事で涙を流せなかった日々が
- 僕はふと後悔してしまう事があるだろう
- あぁ 僕は君を本当に卒業できるのか
- 寂しさと切なさと懐かしさがかけ巡る
- 言葉と心が反比例してしまう 本当に僕は
- あなたを忘れて生きる自信がないのさ だけど
- さよなら さよなら さよなら
- 君にもう会いたくはないよ
- 君と会えば僕は多分 一生忘れられないから
- さよなら さよなら さよなら
- 素直に喜べることはないよ
- 僕は君を卒業するよ 切ない思いとともに
- 僕は君に何かをしてあげる事が出来たのか
- 何か僕はあなたに迷惑かけた気がします
- ごめんと言えばわざとらしく聞こえそうなので
- あえてあなたの前では謝ろうとはしないつもりです
- 最近僕は自分の足で立ちたいと思い
- そこで僕は昔を引きずりたくはないんです
- でもあなたを見ると切なくなってしまうので
- 本当に自分勝手やけど
- 僕はあなたを忘れます だから
- さよなら さよなら さよなら
ちなみに僕自身は、原発はない方がいいとは思っている。
けれど、もしもほんとうに野田総理が言ったように「国民の生活が立ち行かなくなる」のなら、
譲歩する部分はあるのかもしれない。でもこの言葉を僕はとてもいぶかしんでいる。
国が貧乏になり、不便になるのとひきかえに、今回のような事態を100%回避できるのなら、割に合わない代償ではないだろう。
そういうとこう言われるかもしれない。
「国が貧乏になるということは、ケータイが使えなくなるとか、コンビニがなくなるとかそんなことじゃない。今、助かる病気の人が助からなくなり、今、防止できている犯罪が発生し、今、学校に行っている子供たちが学校に行けなくなるということだ。おまえは豊かな時代の不自由ない環境で育ったからそんなことが言えるのだ」
こう言われる困ってしまう。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
それはたぶん誰にも正確には分からない。
僕はおそらくそれほど劣悪にはならないと楽観視している。
根拠はない。ただの平和な時代に生まれた若者のたわごとに過ぎない。
しかし、貧乏で不便な時代が次にやってきたとしても、
科学技術に対して節度をもつという一定の国民的合意や国の決定がなされるなら、
これもわりに合わない代償ではないと思う。
これからの未来、
原発以外にも僕たちが節度を失わないほうがいい科学技術はきっと生まれてくるだろうから、そんなときにそういう態度が重要になると思うので。
クローン技術とか(よく知らずに申し上げていますが)。
僕はバカにできないと思っているんですが、牧歌的でしょうかね。
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