映画『ひゃくはち』の話をするには、どうしてもここから話を始めなければならない。
ほがらかな話ではないが聞いていただきたい。
僕は昔から「熱闘甲子園」を好きではなかった。
僕は高校野球部員を5ヶ月で辞めた根性なし覚悟なしの高校生であったが、
野球部を辞める前も辞めた後もずっと「熱闘甲子園」をあまり好きではなかった。
どうして野球部ばかりが取り上げられ持ち上げられるんだろう。
なぜ卓球じゃないんだろう。どうして数学オリンピックじゃないんだろう。
そう思う高校生は珍しくないはず。
野球部を辞めた後は、より一層好きでなくなった。
それはもちろん野球部を辞めた自分への不甲斐なさを自分以外に転嫁して
“高校野球なんてくそなんじゃ!”と思ったからではない。
わずかとはいえ、野球部名門校ではないとはいえ、
野球部に在籍して高校球児の実態を見知った僕から見て、
「熱闘甲子園」で描かれる高校球児像があまりにも偏見に満ち満ちているからだ。
高校球児は無垢である。
監督にゆるぎない信頼を寄せ、
試合に出られなくても、ベンチに入れなくても、仲間を、チームを思いやり、
全国制覇と女の子に憧れはしてもふしだらなことはなく、
プロテインは飲んでもタバコは呑まない。
そんなわけない。
いや、きっと間違っているわけではない。
たしかに監督を信頼し、チームのためを思い、最優先は甲子園(あるいは県大会ベスト4等)である。
けれどそれはそのほかの豊かな面の内のごく一面に過ぎない。
ほんとうは、
監督を陰口で悪辣に叩き、
自分が試合に出たいがために誰か仲間が故障すればいいと念じ、
女の子と密着したいと願い(あるいはすでにしている)、
タバコや酒でも呑まないとやってられない。
そんな一面もある(というか、あっていい)。
そのほうが豊かでおもしろい。
それをあのように、
純粋無垢で品行方正、清廉潔白に描く。
“あいつらはもっと低俗で頭の弱いやつらだ。何をそんなに持ち上げる?やっぱり金か”
というような妬みや嫉妬心ではない。もちろん。
彼らは高校球児を美しく描いていると思っているのかもしれないが、僕には逆に映る。
ほんとうはもっとエネルギッシュで色鮮やかな高校球児を、
一色ののっぺりとした色に塗りつぶしているのが嫌なのだ。
過ぎた言葉で言わせてもらえば、高校球児を貶めている。
“ふっ、若いな”と言いたくなるような言動をしながらも、
あり余る根性と覚悟と情熱とエネルギーで野球に打ち込む姿がいいのに。
だから僕が言いたいのは、へんてこに美化しないでいただきたいということ。
さあ、感動してくださいというメッセージを発しないでほしいということ。
あなたたちが脚色しなくても、高校野球は十分に感銘を受けるものなんです。
まあいいや。
あんまり言い過ぎると、誤解されそうなので(されてもいいけど)、この辺にしておく。
枕が長くなったけど、『ひゃくはち』はそのような僕にぴったりの映画です。
2008年夏の公開だからちょうど4年前です。
今夏は個人的にいつも以上に何度か感動を覚えたオリンピックもあったし、
母校である松阪高校が甲子園出場を果たして喜ぶ先輩をみたし、
やっぱり必死に汗を流して真剣に取り組むスポーツを見るのって素晴らしいよね、
そう思ったのもあって、4年前に見た『ひゃくはち』を思い出し、
TSUTAYAで借りて見てみたのでした。
『ひゃくはち』は高校野球の映画です。
主役はノブとマサトという2人の補欠選手です。
補欠選手といっても、舞台は野球名門校で部員数が多いので、
ベンチに入れるかどうかも怪しい補欠選手です。
2年生の夏、先輩達が夏の予選で負けるのをスタンドから見て
“やっと俺たちの時代が来た”と密かに2人はかたい握手をする。
“来年は2人で絶対にベンチに入ろうな!”
ここで描かれる高校球児は、
僕が上に書いてきたような(たぶん)ほんとうの高校球児です。
高校球児だっていろいろいるのだから、これがほんとうだというのも憚られるけど、
たしかにいえるのは「熱闘甲子園」で描かれるような高校球児ではなく、
生身の高校球児の一面だと思います(これも僕の先入観かもしれないけど)。
この映画が素晴らしい(というか好きな)のは、
(僕にとっての)等身大で生身の高校球児を描き、
さらに2人の補欠選手を主人公に据えるという、
世間的には2重で見えづらい位置にいる人間を照明した点だと思います。
しかも、物語は2人のサクセスストーリーや人間的成長を描いているわけではありません。
当然そういう場面も付随しますが、
僕にはこの映画が補欠にエールを送っているというか、
補欠の良い生き方というのを示唆しているように映ります。
努力は報われる、だからがんばろう、というわけではない。
ノブが新米の女性記者に
「高校野球楽しい?試合に出ることも・・・あまりないけど・・・」
と訊かれたとき、
「楽しくないッス!ほぼ苦しいッス!」
と凛とした表情で決然と答える場面があります。
“こいつはあほなのか”と思わないでもないけど、
苦しいからとか、楽しくないからとか、試合に出られないからとか、監督に認められないからとか、
そういった理由では辞めない。
誰もがとらわれるそのような判断基準を括弧に入れて、日々の練習に打ち込む。
練習したからって試合に出られるとは、ましてベンチに入れるとは限らないのだけど、
日々の練習を続ける。
仲間は練習に打ち込む姿を見ている。
するとそのうちにチャンスがやってくる。
チャンスと言ったって、一打逆転のチャンスに代打で打席に立つというわけではない。
ただ、チームがピンチだからマウンドに伝令に行け、と監督に言われるだけである。
でも、そこでノブは伝令に行った補欠にしかできないファインプレーを見せる。
これは何でもない機会を好機にするという印象的な場面でした。
選ばれた主力選手には主力選手の立ち方があり、
その他大勢の補欠には補欠の立ち方がある。
その大勢の補欠の中でも自分にしかできない仕事がある。
自分にしかできない仕事がなくても自分にもできる仕事がある。
自分にしかできないことをやるのが自分の役割ではない。
誰にでもできることを自分がやるのも仕事である。
そんなふうに思えていれば、ただの機会は好機になりうる。
そんな補欠のふるまい方や補欠の気持ち。
当然ながら、スポーツの世界だけではなく、
さまざまな生活の場面でこのような補欠的状況に置かれることがしばしばあるので、
その点、とても励みになる映画です。
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