↑宝ヶ池まわりを散歩
↑京都国際会館内
1週間前、11月30日、満田衛資さんにお招きいただいて『満田衛資さんをお祝いする会』に出席させてもらった。
満田衛資さんの事務所のHPはこちら。
会場が京都国際会館とまあ素晴らしいところ。サミットなんかでえらいおっさんがたくさん来ているところ。京都議定書もここ。前から行ってみたかったところでもあった。
閑静な住宅と宝ヶ池まわりの緑の中に威風堂々とした佇まい。
内観も、豪奢であった。日本に世界に誇れる国際的な議場をつくろうとした意志をびんびん感じた。
会は満田さんが日本構造デザイン賞やJSCA新人賞を受賞されたことをお祝いするという名目で開かれた。もちろんその部分もあるのだけど、内実としては満田さんにお世話になっている人たちが満田さんに感謝する会(というとおかしいかもしれないけど)という印象を受けた。
僕がこの会の前に満田さんと直にお会いしたのは1回だけ。講演会やTwitterや勉強会という直でない接触はあったものの関わりが深いとはいえない。でも縁あってお招きいただいたという次第。ありがたい。
会は最初に満田さんの講演(「構造設計試論」?、間違えていたらごめんなさい)があって、その後が立食のパーティー。
「構造設計試論」では、満田さんが構造設計を捉える際の手段として菊竹清訓さんの“か・かた・かたち”を用いているという話をお聞きする(僕が『代謝建築論』を途中で読むのを止めてしまっていたのを思い出さしてもらった。。。)。
会には満田さんの大学の先生である上谷先生や独立前に勤められていた佐々木事務所の佐々木先生も来られていた。(僕が言うのは変な気がするけど)お二人とも満田さんの師である。
満田さんのことばの端々から僕はどうしても師というものを考えてしまう。
で、僕が師というものを考えるときに思い出してしまうのが、長嶋監督と松井選手、それと内田樹さんのことばである。
内田樹『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)の25頁、
- 師とは私たちが成長の過程で最初に出会う「他者」のことである。
- 師弟関係とは何らかの定量可能な学知や技術を伝承する関係ではなく、
- 「私の理解も共感も絶した知的境位がある」という「物語」を受け容れる、という決断のことである。
- 言い換えれば、師事するとは、
- 「他者がいる」という事実それ自体を学習する経験なのである。
満田さんがそう言っているわけではないけど、たとえば満田さんが佐々木先生のことを話すとき、そういう思いが込められていると僕は勝手にとらえている。
なぜ僕がこんなことをくどくど書いているのか。
僕はそうありたいと思っているし、本でもそのような師弟関係であったという話は目にすることはあるのだけど、そのような人には会ったことがなかった。正確には会っているのかもしれないけど、気づけていなかった。
そんな中で満田さんとお会いしたわけだから、なるほど実在された、これについて書きたい、となるわけだ。理由になっていないかもしれない。まあいい。
とにかくそこにあるのは「物語」を受け容れるという決断である。
しかし“決断”ということばは微妙かもしれない。
よし!受け容れよう!と思ってそうするわけではないだろうから、
違う言葉で言うなら、
「物語」に巻き込まれるだけの気量、かもしれない。気量も変だがいいことばが思いつかない。
まあそういうかんじ。
長嶋監督と松井選手だってそうだ。
長嶋監督より松井選手の打ったHRのほうが多い。
野球だって長嶋監督の時代より今の方が進んでいるんだから、技術的には長嶋監督より松井選手の方が上であるということもないとは限らない。
でも、弟子にとってそういうことは関係ない。
師は自動車教習所の先生ではない。
今回の会に出席させてもらい思ったことがもうひとつある。
“自立”ということについて。
会にはたくさんの方が来られていた。たしか150人くらい。
人数がどうこうというわけではないけど、来られている方みなさんが満田さんを慕ったり、頼ったり、ひとつのモデルとしたり、世話になったり、気にかけていたりしている(ように見えた)。
「ああ、この方のまわりにはたくさんの方がいるのだなぁ」と素朴に素晴らしいと思った。
多くの人に支えられており感謝しています、と満田さんご自身も言われていたが、満田さんが支えられていると思っている人も満田さんに支えられている。
なるほど、これこそが自立ということか、と目の当たりにしたような気がした。
- だって、そうだろ。
- 「自立」と言ったって、人間、一人で生きていけるはずがないじゃないか。
- 「自立している人」というのは、(中略)周りの人間の「承認」と「敬意」を支えにして立っているわけで、
- 別にひとり宙空に浮いているわけじゃない。
- だから、自立している人間というのは、平たく言ってしまえば、
- 「何かというと、他の人たちから頼られ、すがりつかれる人」のことだ。
(『期間限定の思想-「おじさん」的思考2-』、20,21頁)
まあ目の当たりにするというのは大切なことで。
そうそう、満田さんが講演で紹介していた棚橋先生のことばも印象に残ったので書きとどめておく(うろ覚えだけど。。。)。
“ゆたかな常識をもちなさい”
つまり、貧相な常識をもたないように、ということ。
常識は縛られるものではなく、拡げるものといったところでしょうか。
あらためて、おめでとうございました。お招きいただき、ありがとうございました。