今、岡田憲治さんの『ええ、政治ですが、それが何か?』(明石書店)を読んでいます。
205頁から“政治とは「これが現実だとさせること」である”という題ではじまる中にこんな一節がありました。
― 現実とは「これが現実だと思っていること」、つまり経験と直感に照らして、
― そのときの身体条件の下で作った、
― 著しく違和感を抱かない「収まりのいい解釈」のことです。
(212頁)
「えっ、ここに書いてあるのってそういうことじゃないんですか?(汗)」
「違います。ここで言っているのは、きわめて限定的な意味でのことです(きっぱり)」
「・・・。あ~、そういう解釈ですかぁ。なるほど・・・(そんなふうに読めるかよ)」
これもひとつの解釈→現実だと思います。
上の一節を読んで僕は二人の作家のことばを思い出しました。
森博嗣さんの『すべてがFになる』の中の一節です。
― 「先生、現実って何でしょう?」 萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
― 「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」 犀川はすぐ答えた。
― 「普段はそんなものは存在しない」
もうひとつは、村上春樹さんの『国境の南、太陽の西』(講談社文庫)です。
少し長いです。
長いので先に僕の感想を言います。
この3つのことばは概ね同じことを言っており、
これが現実の(観念的な)現実とでもいうようなものなのかもしれません。
当然、現実の捉え方は多様でしょうが、これがまさに僕にとっての
“著しく違和感を抱かない「収まりのいい解釈」”です。
― たとえば何かの出来事が現実であるということを証明する現実がある。
― 何故なら僕らの記憶や感覚はあまりにも不確かであり、一面的なものだからだ。
― 僕らが認識していると思っている事実がどこまでそのままの事実であって、
― どこからが「我々が事実であると認識している事実」なのかを識別することは
― 多くの場合不可能であるようにさえ思える。
― だから僕らは現実を現実としてつなぎとめておくために、
― それを相対化する別のもうひとつの現実を -- 隣接する現実を -- 必要としている。
― でもそのべつの隣接する現実もまた、
― それが現実であることを相対化するための根拠を必要としている。
― それが現実であることを証明するまたべつの隣接した現実があるわけだ。
― そのような連鎖が僕らの意識のなかでずっとどこまでも続いて、
― ある意味ではそれが続くことによって、
― それらの連鎖を維持することによって、
― 僕という存在が成り立っていると言っても過言ではないだろう。
― でもどこかで、何かの拍子にその連鎖が途切れてしまう。
― すると途端に僕は途方に暮れてしまうことになる。
― 中断の向こう側にあるものが本当の現実なのか、
― それとも中断のこちら側にあるものが本当の現実なのか。
(280頁)
共通は、現実は幻想であやういものだということ。