JSCA(ジャスカ:日本建築構造技術者協会)が
4ヶ月に一度発行する『STRUCTURE』という機関誌がある。
今月号(2013.01号)に寄稿された中に「構造設計は楽しくない?」と題した(もしかしたら正確には違うかもしれません)文章があった。
これが僕のTLで少し話題になっていたので、それについて触れてみる。
主に話題になっていた内容というのは、
寄稿されていた方が
知り合いから学生に対して構造設計は楽しいという話をしてくれ、
と頼まれたのだけど、自分自身が楽しいことよりもはるかにつらいことが多く、
それを偽って学生に話すのは、学生を欺くような気がしたので辞退した、というもの。
僕は誰にも頼まれていないけど、
「構造設計は楽しくない?」という題で僕も書いてみる。
~ 構造設計は楽しくない? ~
「構造設計の楽しさ」という題で何か書いてくれないか、とお願いされたので、
構造設計をはじめてまだ5年の若輩者だが、せっかくの機会なので拝受した。
一般論(図面に描いたものが形になる、といいうのがいちばん多い?)は
多くの方がたくさん耳にしたことがあると思うので個人のことを書かせてもらう。
友人からしばしば「設計事務所は大変でしょ?」と訊かれることがある。
僕は「市役所にいた時のほうが辛かったかな」と答えている。
僕は構造設計事務所に勤める前、市役所に3年(指導課2年、営繕1年)勤めていた。
労働時間でいえば、今は倍くらいになっている気がする。
休日も激減した。
労働時間につれて給料があがったわけでもない。
それでも市役所の方がつらかった、というのはなぜか。
端的にいえば「押し甲斐を見出せなかった」ということになる。
「のれんに腕押し」、「糠に釘」といってもそう遠くない。
虚無感を感じていた。
要は注力の対象(やりがいとは少し違う)を見出せなかった。
今思えばずいぶんと生意気なやつなのだけど、
率直にいえば(特に指導課のとき)、やっていることをあほらしく感じていた。
1000平米の建物の面積が0.1平米違うというだけでも、
業者さんを呼び出して書類を直してもらわなくてはならない。
そこにどんな意味があるのか、僕には見出せなかった。
意味を見出そうとし過ぎるのも生意気だ。
生意気ついでで新人研修として実施された接遇研修のことを思い出した。
ホテルマン?のお手伝いをする研修で、僕はお客様にひたすら“いらっしゃいませ”と頭を下げた。
その研修は3日間あったのだけど、最後の日、僕は仮病でずる休みした。
そのとき僕が思っていたのは「俺の頭は下げるためにあるんじゃねえ」だった。
今思えば、「今のお前の頭で何ができる、バカヤロー」と自分に鉄拳したいくらいだ。
閑話休題。
とにかく僕は押し甲斐を欲していた。
そんなときに姉歯さんの事件が起きた。
建築に携わる人の中でも構造設計を理解している人が圧倒的に少ないことが分かった。
これはチャンスだと思って、構造設計を志した。
押し甲斐はたやすく感じることができた。
ただ楽しいという気持ちはなかった。
何しろまったく分からない(当たり前だが)。
指導課での審査の仕事で構造図や計算書をみていたが、
理解が進んでいたとは言い難かった。
そんなことも知らないのか、と馬鹿にされた。当然気分はよくない。
やったことないんだから分からないの当たり前だろバカヤロー、と心中では開き直っていた。
とにかく粘り強く考えた。
今、分からなくても1ヶ月後に分かるかもしれない。数年後かもしれない。そう考えた。
そのときに分からないものは、
分からないなりにどう対処するのか問われるのが仕事だと捉えた。
するとそのうちに少し分かるようになる。
数ヶ月前に見た図面や規準書のことばが違う意味をもって目に映るようになってくる。
これは嬉しかった。
するともっともっとと亢進していく。
相変わらず、こんなの有り得ん、と上司に呆れられることはあったが少しずつ減っていった。
ある程度構造設計の言語を理解すると、
だんだんといかに理解するかから、
いかに設計するかに興味が移っていった。
最初の方は、部材に符号を付けるのがおもしろかった。
部材に符号をつけるのは、世界を整序することだと大げさに考えていた。
この構造物の統治者は自分である、とあほなことを考えたりもした。
長くなるからやめておく。
もちろん、どうみてもしょうもない雑用や作業もある。
僕はそういうのを消費税だと思っていた。
あるいは自分が不遜にならないためのセラピーだとも。
相手先から無理な注文があったりして気持ちがきりきりするときは、
気持ちがきりきりする勉強だと思えた(思えた、と書いたが当然きりきりしているからつらい)。
それらを支えているのは、押し甲斐があることだと今も感じている。
B'zの『ultra soul』じゃないけども、
“祝福が欲しいのなら底無しのペイン迎えてあげましょう”という気になってくる。
で、結局「構造設計の楽しさ」とは何か。
僕の場合は、押し甲斐があることだ。
じゃあ、他の仕事でもいいじゃないか、ということになる。
もちろんいい(実は僕は今でも物書きをしてみたい)。
たまたま僕は時機や境遇や志向によって構造設計を選んだ。
ダウンタウンのまっちゃんだったと思うけど、
「自分探しっていうけど、探さないと見つからない自分なんて大したことない」と言っていた気がする。
何を申し上げたいかというと、
楽しさに拘らず、興味があればやってみたらどうでしょう、ということを言いたい。
どんなものにでも楽しさは見出せる、というのは僕の中では嘘だ。
僕は市役所をやってみたけど、だめだった。
だめだったけど、いかなきゃよかったとは思わない。
楽しさ、ということばじゃなくても、充実でも、ひとときの快感でも、
ことばにならなくても何か一生懸命、ある程度の時間やってみる、
やってみないと分かりづらい。
最後はますますポエムっぽくなりました。あしからず。
ちなみに僕は、大学のとき、構造力学を一度落としています。
そのあたりは大丈夫です。
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