悪夢(1)
7月31日の午前3時、土曜日の未明、酒が残った頭で目覚める。
(ああ、そうだ、
土日は建築主事の勉強をしなければ。
事務所に法令集と問題集を取りに行こう)
そう思い立って家を出た。
明日にすればええやん、
いや、だめだ、
何でも思い立ったときにしなければならない。
AVENGED SEVENFOLD「NIGHTMARE」を聴きながら、
20分ほど自転車で行くと事務所に着く。
鍵を開けて建物の中に入る。
すぐに帰るとはいえ、
万が一のことを考えて内側から鍵を閉める。
3階まで階段を昇り、
またそこで鍵を開けて僕の席がある部屋に入る。
法令集と問題集をもってきた紙袋に入れる。
一応メールもチェックしておこうと思い、パソコンを立ち上げる。
何もメールは来ていない。さ、帰ろう。
ドアノブについたボタンを押して鍵を閉め、部屋を出た。
そして階段を下りる。
そのときに気づいた。
鍵を自分の席の机の上に置いたままだ。
困ったことになった。
これは密室というやつだ。
熱帯夜の暑さのせいか、ひどく狼狽しているせいか、汗が噴き出してくる。
誰かに連絡して来てもらおうか。
いや、それはいかん。
今を何時だと思っている。夜中の3時半だ。
しかも自らが招いた失策。
命の危険も無い。
ここは常識を優先させるべきだ。
とすれば脱出は自らの力で成し遂げるしかない。
外部への抜け道は普通に考えて2つある。
ひとつは道路に面した給湯室の窓だ。
そこからは飛び降りるしかない。
しかし高さは5,6mありそうだ。これは問題だ。
もうひとつは3階にある隣地の建物の壁に面したトイレの突き出し窓だ。
問題は3階で高さがさらに高いことと、
突き出し窓ゆえに非常に出にくいことだ。
そもそも出られるのだろうか。
しかし出られれば、両側の建物の壁に足をかけながら下りられるかもしれない。
状況的な問題の他に、
僕が自ら抱え込んでいる問題がある。
それは法令集2冊(法令編と告示編)とA4版の問題集、
それとウォークマンを入れた紙袋を持って脱出せねばならないことだ。
そして僕は本も音楽も愛している。
だから外へ放り投げるなどということは、
とてもじゃないが出来ることではない。
一緒に、無傷で脱出せねばならない。
それなら、そんなの置いていけばいいじゃないか、
たしかにそうだ。
しかしぎりぎりまで理想を追い求めるのが男の姿というものだろう。
悪夢(2)
僕は熟考を重ねた上でついに決断をした、
というよりもそのとき僕は何かにそうさせられていた。
僕はトイレに入り、
高さ約150センチ、縦横ともに60センチ程度の突き出し窓から出る自らの姿を即座にイメージした。
その窓は便器の横にあるので、
僕は便器を足掛かりとすることにした。
まずは足掛かりとするにはいささか弱さを感じさせるプラスチックの便座を上げる。
そして陶器でできた便器が僕の体重に耐えられるかどうかを確かめるために、
片足を乗せて徐々に体重をかけていく。
オッケー、問題はない。こいつは僕を支えられる。
それを確かめると僕はいよいよ行動に移る。
右足を便座にかけて、左足は窓をまたいで外に出す。
そして尻、胴体、頭、右足の順に窓を通過させる。
同時に両手は窓枠をしっかりと掴まえていなければならない。
だが、窓の大きさが小さいのでそう簡単にはいかない。
窓枠を掴んだ手を離せば、
身体が窓を通過した瞬間に僕は重力によって地面に向かって加速し、
高さ3階の位置エネルギーが地面との衝突によって発揮される。
まかり間違ってもそれは避けなければならない。
僕は持てる限りの(しかし決して高くはない)自らの身体の柔軟性をここぞとばかりに発揮して、何とかそれを実行した
(しかし詳細はよく覚えていない。今思っても不思議だ)。
次に隣地建物の壁とこちらの建物の壁に足をかけて、
地面へ下りて行こうとする。
まず僕は右足を隣地建物の壁につけてみた。
僕は絶望の淵に追いやられた。
吹き付け塗装のなされた建物の壁はおそろしく滑る。
とてもじゃないが、
両側の建物の壁に足をかけて僕の体重を支えるほどの摩擦係数を有していない。
またしても汗が噴き出してきた。これは明らかに脂汗だ。
けれど今、僕は窓枠を手で掴んでぶら下がっている状態だ。
ここからまた狭い窓をくぐり抜けてトイレへ戻るのも骨を折るだろう。
行くも戻るも簡単ではない。何か方法はないか。
隣地建物の方に首を振り向けて手がかりを探すと、
僕の足よりは少し下の位置に
1メートル程の範囲で10センチほど壁がへこんでいる部分がある。
これはまさに僥倖だ。
しかしなぜへこます必要があったのだろうか。
馬鹿野郎。そんなことはどうでもよい。
とにかくこのままぶらさがっていては、
握力はどんどん低下し体重を支えるのが困難になってくる。
まずはあそこへ足を置き、一息つかなければならない。
壁のへこみが自分の足よりも下にあって容易には足をつけなかったが、
意を決して足を投げ出し何とか足をついた。
さて次はどうしようか。
何しろ、当初予定していた両側の壁に足をかけておりるという作戦はもう使えないので、
どこか足を置ける場所を探さなければならない。
道路の方を見てみると、
今いる位置よりも2メートルほど道路側に地面から壁が立ち上がっていた。
それはよく見ると壁ではなく、扉だった。
隣地建物との間の敷地への侵入防止の扉だろうと僕は推測した。
次はあそこに足を置くしかない。
あそこに足を置ければあとは地面まで2メートル余りだろう。
あそこへの到達は渇望する脱出の完遂を意味する。
僕は壁のへこみの上を道路側に出来る限り移動すると、
足を隣地建物の壁のへこみに、両手は抜け出した建物の壁に置きながら、
慎重に身体をしゃがみこませていった。
そして今度は足を置いていた壁のへこみに両手をかけて、
胴体と足を慎重に宙に放り出す。
僕はうまくぶらさがれて安堵した。
またしても容易に足は扉の上に届かなかったが、
何とか静かにあがきながら届かせることができた。
その扉の上からは容易だった。
ついにやっと僕は脱出に成功した。
ひどく安堵したのと同時に、ひどく興奮していた。
だが、その安堵は束の間のものだった。
脱出できたはいいが、事務所の鍵と自宅の鍵は一緒になっている。
帰宅できない。
僕は比較的事務所に近いところに住んでいる
アンヨウジくんとクスダくんにメールで連絡をとってみた。
アキタくんにもメールしようとしたが、電話番号しかわからない。
僕はナカイさんにメールをして、
アキタくんのメールアドレスを教えてもらおうとした。
もしも起きていれば自転車をとばして鍵を借りに行き、
事務所に戻って鍵を開けて自分の鍵を取り戻し、
また返しにいけばいいと考えた。
それならかける迷惑は最少で済ませられる。
だが、メールは20分ほどしても誰からもメールは返ってこなかった。
当然のことだ。もうすぐ深夜(というか未明の)4時である。
興奮はしているが、おそらく身体はだいぶ疲れているはずだ。
僕はネットカフェに行って休もうと思った。
朝になればそのうち誰か起きてくれるだろう。
そう思ってネットカフェに向かっている途中に、
未練がましく携帯電話を見てみると着信があった。
ナカイさんだった。
僕はすぐに折り返して電話をしようとしたが、
なぜか携帯電話がフリーズしたような状況になった。
(おい。どうなっとるんじゃ)
たちまちに僕はソフトバンクへの怒りがこみ上げてきた。
(なぜ、よりによってこんなときに)
(いやいや、落ち着け。一度電源を切って、また入れてみれば直るかもしれない)
やってみたら直った。
馬鹿にしやがってと携帯電話を投げつけたい衝動に駆られたが、
僕はそこまで馬鹿ではない。
すぐにナカイさんに電話をした。
どうやらナカイさんはさっきまでアキタくんと一緒にいて、
ほんのさっき帰宅したところらしい。
僕は事情を説明して、
申し訳ないのですが、アキタくんのメールアドレスを教えていただけませんか、
と言うと、何とナカイさんは吹田市からバイクを飛ばして来てくれるという。
いやしかしそれは悪い。ましてや先輩だ。
遠慮したが、ありがたいことに遠慮しなくてもいいということなので、
僕はお言葉に甘えることにした。
エンジェルが、メシアが現れたのだ。
30分ちょっとでナカイさんは来てくれて僕は事なきを得た。
ほんの気持ちとしてマルボーロのタバコを3箱お渡しした。
僕は重ね重ねお詫びをしたが
「全然ええで!」という言葉面だけではないナカイさんの言葉を素晴らしく思った。
それはおそらくはナカイさんがこれまでの人生で醸成してきた懐や器の大きさというよりも、
ナカイさんの気質によるものだろうと勝手に想像した。
これは貴重である。気質は才能だから。
事なきを得ると抑圧されていた疲労がどっと露出する。
僕は牛歩のようなスピードで自転車をこいで帰宅した。
すぐにシャワーを浴びようと裸になると、
右腕と下腹部にちょっとしたあざのようなものが出来ていることに気がついた。
「ねじまき鳥クロニクル」のオカダトオルのようだ。
まあいいだろう。とにかく僕は生還した。
そしてシャワーを浴びた後、 「悪夢(1)」を記事を書いた。
書き終わるとすぐに家を出て、午前6時の電車に乗って三重へ帰省した。
実家に帰宅するとすぐにまーきーと中京競馬場に行って競馬をし、
夕方までに戻ってそれからじょうちゃんたちと麻雀をした。
帰ったら25時過ぎだった。
泥のように眠った。