長渕剛の新曲「絆-KIZUNA-」のPVが公開されているというのを公式HPで知ったので、早速YouTubeで見てみた。カテゴライズされにくいファッションで、カテゴライズされにくい歌を歌っている。一聴しただけでは、ともすればただのマッチョな音楽と断じてしまいそうだけど、そこに仮想的にでも奥深さが備わってみえるのはやはりこれまでの長渕の軌跡が背景になっているからだろうと思う。
奥深さとさっき言ったが、本当の言葉は“期待”なのかもしれない。長渕ファンの多くは僕も含めて、その男気とでもいうようなものがにじみ出た作品を好む。人間にはじかれながらも、人間に飢える心情を時に激しく、時に穏やかに、長渕にしか使えない修辞で歌い上げた曲に心打たれるのだ。そしてそんな長渕が、デビュー当初は今とは正反対といっていいような声色で淡い恋情を歌っていたりするから、その人間的豊饒さとでもいうものに惹かれるのである。
しかし。長渕において同朋である西田との間では、「Come on Stand up!」と「FRIENDS」の長渕において、その修辞が顕著に身を潜めてしまったと今のところ結論している。かつての長渕に「いけ!いけ!GO!GO!」や「Blue Jeans」のような曲の着想が生まれただろうか。僕がそこに感じたのは、長渕の成熟及び老成への過渡期である(僕のような26歳の若輩者に成熟などといわれたら、蹴りを入れられるだろうが他に言葉が思いつかないので仕方が無い)。現在の長渕はもはや“飢えの渦中”にはおらず、安定した見地から眺めたり回想したりして曲を生んでいるような気がする。2008年に、娘の長渕文音も女優デビューしたことも無関係ではないだろう。長渕の安定した見地とは、いわば母性的なものといってもよいかもしれない。
そんなふうに想像する僕にとって、今回の「絆-KIZUNA-」は過渡期の長渕を象徴する曲のように思える。歌詞に選択された言葉たちはたしかに長渕の語彙だろうが、PVや曲と合わさったとき、かつての(“飢えの渦中”にあった)長渕の曲が僕に引き起こした種類の心情には届かない。長渕の長渕にしか書けないいい曲だと思うし、ライブでも映えそうだけど、どこか届かないところがあることは認めなければならない。
とにかく何回も聴いてみよう。そして、新アルバムを楽しみに待とう。届こうが届かなかろうが、長渕を好きなことに変わりはないし。
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