3月11日から約2ヶ月半が経った。
書店には原発関連の本が平積みされているし、報道されるニュースも原発関連が主だ。でもやっぱり僕にとっての東日本大震災は津波の被害がもっとも印象深い。津波は東北地方を引っ掻き回して海に帰り、今は実に平静としている。
少し前に吉村昭「三陸海岸大津波」(文春文庫)、先週末には内田樹、中沢新一、平川克美「大津波と原発」(朝日新聞出版)を読んだ。今日は「三陸海岸大津波」を紹介したいと思う。
この本では
明治29年(1896年)、
昭和8年(1933年)、
昭和35年(1960年)
に三陸海岸を襲った大津波の凄まじさが、これらを体験した人々の声や文字、あるいは記録や文献として残っていたものを元に語られている。僕が読んだ吉村さんの本は他に「高熱隧道」だけだが、吉村さんの再現性(とでもいうものは)はやはり凄まじい。
本文の津波が襲来した様子にも息を飲むものがあるが、これにも増して凄惨ともいえるのが数多の犠牲者の中にある生存者の光景である。
明治29年の津波、岩手県気仙郡広田村では、海上に流された死体が多かったため、村民たちは死体を捜すために船を出して網をかけた。陸地から網を曳くと、腐乱して膨れ上がった死体が50体以上かかったという(P42)。
また、芥や土砂の中にも埋もれた死体は数多くあった。作業員たちはこの死体を発見するために一面に水を流したという。死体からは脂肪分がにじみ出ているので、水を流すと死体が埋もれている場所はぎらぎらと油が浮いてくるのだ(P51)。
おぼろげで曖昧な想像でも強烈さが伝わってくる。具体的な想像はできないが、被災地で犠牲者を捜索している自衛隊員やその他の作業員の方たちも言葉を絶するような光景に出会ったに違いない。
今回の震災(地震、津波、原発による)は1000年に一度だというが、たしかに原発だけは今までなかったのだから、そうなのかもしれない。
けれど、現時点で多くの被害をもたらしている地震と津波に限っていえば、全く1000年に一度ではない。この本にもあるように、半世紀に一度は犠牲者を出すような大津波が三陸海岸を襲っているのだから。
死者の数をいえば、
明治29年(1896年)は26360人、
昭和8年(1933年)は2995人、
昭和35年(1960年)は105人である(P171,172)。
津波の規模や質の違いもあるだろうが、防波堤の整備や住民の津波への意識が高くなったことによって被害者数は激減している。しかし、やはり明治29年の被害は壮絶だ。
明治29年の津波では、海から50m程度も高い丘に建っている家屋まで入り口の戸を押し破るほどの波が押しよせてきたという(P26,27)。
三陸沿岸では津波のことを「ヨダ」と言ったらしい(P67)。「ヨダが来た!」と叫んで住民は高台へと避難した。なんとも不気味で怪物じみた響きをかもし出している。
僕が“津波はあまりに強力である”ということを知ったって復興へは何の寄与もありはしないが、天災やそれに端を発する人災の考えや知識を深めておくのは決して1000年に一度ではない危機に対して、有効だろうと信じてこれからも勉強し続けたいと思う。