さきほど、桑名から大阪へ戻る近鉄特急の中で佐伯啓思『現代文明論講義-ニヒリズムをめぐる京大生との対話』を読んでいた。
その中で、1997年の酒鬼薔薇聖斗事件が起きたときに話題になったあのテレビ番組の話が取り上げられていた。それは酒鬼薔薇聖斗と同じ14歳の子どもたちを集めて討論するというもので、番組の中である少年が大人たちに「なぜ人を殺してはいけないのか」と訊いたとき、大人たちはまったくきちんと答えられなかった場面があったのだ(今思えば、僕も1997年で14歳の人間だったのだ)。これがたいそう話題になった(らしい)。
このような原理的な問いをつきつけられたとき、ほとんどの人はまずどう答えるべきか考えるだろう。ある人は「そんなの当たり前だ。ばかやろう!」と言うかもしれないし、別の人は「社会の秩序を乱すからだ」と答えるかもしれない。もちろん絶句する人もいるだろう。けれど、ほんとうは正答がないことをみんなが知っている。
僕は昨年話題になったサンデル教授を思い出す。『これからの「正義」の話をしよう』で大層日本のメディアで取り上げられた。大変に興味深い命題の上、流行もあって僕も買ったのだが、たしか3分の2くらい読んで放置してしまうことになった。途中でやめて言うのもなんだが、おもしろい。じゃあなぜ途中でやめてしまったのかといえば、時間やタイミングもあるけど、それは僕がこの議論に少し違和を感じていたからだ。正答がないのは分かる気がする。でも、もしも万が一、理屈として(ほぼ)無欠である回答を発見できた場合、果たしてそれは現実でもしも類似した場面に遭遇したときに有効なのだろか。僕は怪しい気がしていた。そのようなもやもやした気持ちを抱えながら読んでいたのが、途中で放置してしまった原因のひとつだった。
そんな僕の曖昧な思いにいくらかの輪郭を与えてくれたのが、高橋源一郎さんの2011年2月17日の『午前0時の小説ラジオ』だった。『午前0時の小説ラジオ』は高橋源一郎さんが、ツイッター上で24時からあるテーマについて連続ツイートするというもので、時期は不定期だ。その日の題は【一度だけの使用に耐えうることば】だった。リンクを貼り付けておく。そんなに長くないので読んでない人は読んでもらいたい。
この中の『オメラスから歩み去る人々』でひいた問いも原理的な問いだ。どちらが正しいと断じることはできない。正答はないのだ。僕もやすやすとどちらかを選ぶことはできない。しかし、高橋さんがいうように、答えをどうしても出さなければならないときがある。
そのとき僕たちはどのように答えるのだろうか。答えなければならない状況に応えることができるのだろうか。ふだんから答えを考えておかないと大切な場面で答えられないような気もする。常から立場や態度をはっきりさせておいたほうがいいのではないか。そう思って「正答」を探す。
しかし、考えてもやはり答えは出せない。それはなぜか。高橋さんは言う。
“それは、ほんとうは、ぼくたちが「オメラスの住人」ではないからだ。”
そして、
“ぼくたちは囚われの少女の顔を知らない。オメラスに住む自分の父や母や友人がどんな人間なのかも知らない。だから、「答える」ことができないのだ。”
冒頭に書いた14歳の少年の「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対しても高橋さんは言う。
“答えることができないのは、その青年とぼくたちとの間に関係がないからだ。関係がないなら、そこには「正解」を捜す運動しかないのである。”
関係がなければ特殊性がない回答を捜さざるを得ない。けれどその特殊性がない回答、つまり正解(正答)はない。だから答えられない。あっさりとした理路である。
原理的な問いに対して考えることは、自分の考えの整理のためや関係のない人間に問われたときのためにもちろん無意味ではない。けど、高橋さんの話を読んで、結局もしも現実にその場面に遭遇したら、答えはきっとその考えたこととは別に、僕と相手(あるいは対象)とのその時の関係の中で出すことになるのだろう、と思うことができるようになった。これで気持ちは楽になった。