- よく相手を調べもせず、人気無いからと無視する。競馬で学べよ。俺の競馬人生、トータル―ウン十万 ―
ブラックマヨネーズ吉田。2011年3月7日のツイートより。いいこと言うやん。
ギャンブルからはいろいろと学ぶところがある。
しかし本当のギャンブルというのは、カイジが言っているように
― 三度勝てば、顔は紅潮し、体温が上がるくらいの張り・・・
― 三度負けたら、血は逆流、胃まで痛んでくる、そんな張り・・・
― 結局、博打の「張り」ってのは・・・
― ひりつかなきゃ駄目っ・・・!
というものだと僕は思っている。
とすると僕はギャンブルというものを打ったことがない。
けれどそんな張りがなくとも遊ぶのは十分におもしろい。
麻雀は高校生のときからしているが、やっぱり大学生の頃にいちばんよくやった。
不合理を愉快に受け止めることを覚えたのはその頃だった。
なぜ5巡目にした三面張の立直が実らず、12巡目に追っかけられたカンチャンの立直に一発でツモられる。
なぜ無思慮なあいつの打牌が全部通って、俺の打牌が一発で当たる。
なぜ手順がむちゃくちゃなあいつに牌が入って、少なくともあいつよりは正当な俺の手順が実らない。
例をあげればきりがない。
その中にもいろいろと理はある。いくら三面張でも死に面子じゃだめだとかね。
けれどもっともまっとうな受け止め方は「そういうものだ」と観念することである。
僕の貧弱で、しばしば的外れな理屈をはるかに超越したところに麻雀のメカニズムは存在しているのだ、というように。
そしてそれはまさにこの僕が生きている世界ではないか、という思いにつながる。
いくら僕が異議申し立てをしたところで、超越的麻雀メカニズムは不動である。
青筋を立てても世界が歪んでみえるだけだし、周りも自分も気分がよくない。
そもそも僕は凌ぎを削るために麻雀をしているのではなくて、麻雀が好きだから麻雀をしているのだ。
麻雀をしているときのあの多様に妙な空気が好きなのである。
ツモや打牌にときに心中で、ときに露わに一喜一憂し、
ときにシリアス、ときに滑稽、ときに談笑、ときに無心なそんな卓上の雰囲気。
それらを生み出すのは他でもない超越的麻雀メカニズムである。
そこにはいつも多かれ少なかれ友好が横たわっている。
麻雀は友好を結ぶ契機になり、親睦を深める手段である。
それなら愉快なほうがよい。
しかもうまくいかないときほど、負けたときほど愉快になったほうが周りはいっそう愉快になる。
周りが愉快になると、なんだか自分も愉快になってくる。
もちろん負けても嬉しい、というわけではない。
僕のような俗人にそんなときの焦りや苛立ちはビルトインされており避けられるものではない。
なので受け止めるしかないのだが、その受け止め方を磨くのである。
それを僕は大学生のときに麻雀で(主には金子さんから)学んだ。
なので僕は大学2,3年生の頃から麻雀をコミュニケーションツールというそれっぽいことばでも呼ぶようになった。
無論いろいろな考え方があっていい。
友人といえども勝負には負けられん、でもいい。
わいわいと麻雀したらひりつかないから駄目だ、でもいい。
僕には先述してきたような考え方が合っているというだけのことだ。
内田センセがブログでこう言っていた。
- 点棒を払うときの表情で人間の質は決まる -
内田センセらしい、はんぶん真面目ではんぶん放言のようなことばである。
麻雀は偉大である。
小博打でも博打じゃなくても、十分に偉大なのである。
蛇足だが、札幌での大学生4年間、みんながうつつをぬかす花火大会の日、
僕は4年連続で佐々木のうちで麻雀をしていた。
やはり麻雀は偉大である。
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