タイトルに『大阪ダブル選挙』と書こうとしたら最初に変換されたのは“ダブル占拠”でした。スポーツ新聞の見出しになりそうです。なかなかうまいね。
なんというか、僕に複雑な、そして少しかなしい気分を残したまま終わった今回の選挙でした。
勝ったのは選挙術に長けていた方ということじゃないでしょうか。
争点は都構想ではなく、橋下さんでした。
倉田かおるさんの「橋下さんの幻影と戦っていたような選挙戦だった」ということばがとても印象的でした。
それを象徴するように、反橋下さん側は、橋下徹を記号するものを批判することに尽力したように思います。
都構想自体というよりも維新の会が掲げる都構想を、独裁者という語自体よりも独裁者とした橋下徹を、といった具合に。
今回の選挙戦では、橋下さんの影がちらつかないどんな言説も聞きませんでした(そんなことを言えるほど聞き耳を立てたわけではありませんが、あしからず)。
平松さんにはもっと橋下さんの土俵にあがって意見をたたかわせて欲しかったです。
でも平松さん(陣営)はそれをやらなかった。なぜか。
それはこと橋下さんとの選挙戦という場において、平松さんの語り口が橋下さんとの討論になじまなず、平松さんのいいところが悪いところと判断されてしまうのではないかと判断したからじゃないかと思います。
「一緒にやりまひょ」とか「こつこつ堅実に」とか「噛み切れない想い」とか「逡巡する知性」とか、そういうのは橋下さんとの討論になじみません。
橋下さんはそれらを有権者に向けて有権者が分かりたい形でじょ~ずに喝破します。
欲しいもの(正確には欲しいと思わされたものかもしれませんが)が差し出されたら、それを手にとってみたいと思うのが人情というもの。そこを実にうまくやっているように感じました。
なので辛坊さんが「平松さんにしてみれば、今回は相手が悪かったというところじゃないでしょうか」といったのも、平松さん自身が「力不足を痛切に感じました」といったのも、上のような意味を含んで聞こえました。
僕は平松さん、橋下さん両者の主張することに対して「うん、十分にそうも言えるよな」と思ってしまうタイプです。中央公会堂で行われた懐徳堂のキックオフイベントで直に見た平松さんも、『おせっかい教育論』の平松さんも、ツイッターや自身のHPでの平松さんも、報道される平松さんも含めて「人や世間はそうあるのが望ましいよね」とおだやかに、しかし深く思うのです。
それに対して橋下さんは危険です。主張も危険。発言も危険。橋下さんの11月8日の週刊誌を批判したツイートなんかもう良くも悪くも笑えてきてしまいます。“バカ文春やバカ新潮”とののしって、最後には“あースッキリした”と言う。これがこれから選挙に臨もうとする者の発言でしょうか。しかしこれが橋下さんの作戦でもあるわけです(というか作戦にしてしまう)。『橋下主義(ハシズム)を許すな!』で香山リカさんが言われているように条件付けや上意下達や競争によってヒトを動かそうとするような“前提とされている人間のモデルが、貧弱”な気もします。
しかし(たぶん)うまい。民衆を味方につけること、実行力を示すこと、メディアを利用すること、対象を乗り越える(負かすか排除する)こと、分かりやすく説明することなど。
これらも政治家としての力のひとつには違いありません。
僕は『体制維新-大阪都』も読んでみましたが、これはこれで結構なことだと思うし、(できるかどうかは別にして)やってみようとする価値もあるように思いました。
けれど、迷いや不安が多く残ります。
ほんとうに橋下さんでよかったのか。しかも府知事も維新の会で松井さん。
なった以上は腹をくくって見守り、この結果がどうであったのか考えるしかありません。
冒頭で複雑だといったのは、もし平松さんが当選していても同じような思いをもったような気がするからです。
橋下さんだったらどうだっただろう、と捨てきれない期待に未練を残したと思うのです。
それはおそらく、結局は今回の選挙戦が橋下徹をめぐったものに終始したからだと、とりあえず一応結論づけています。
橋下さんに対してYesかNoか。橋下さんに対してはYesとも言いづらいけど、Noとはっきり言える理屈も思いもない。じゃあ平松さんか。平松さんは平松さんではなく、No橋下さんになっている。そこに託す理屈も思いも醸成できなかった。そしてすごく消極的な投票になってしまった。よって複雑で少しかなしい思い。そんな按配です。
これから人生で何回投票するか分かりませんが、自分は何をもって投票するのか、結局分かりませんでしたが考えさせられた選挙でした。
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