身体が洗われたような小説だった。
身体が洗われたので気持ちもさっぱりした。
いくらか垢が落とされたといってもいい。
あらすじは、大学生の橋場くんが喜嶋先生という人格に出会って学問や研究といったもののしずかなうつくしさを知っていくというものである。
ちなみに帯には【学問の深遠さ、研究の純粋さ、大学の意義を語る自伝的小説】と書いてある。
おおむね同意する。これだけの字数で表現するには適切な語彙選択だと思う。
僕が上で言った“しずかなうつくしさ”というのはそれらを総合したものだとみなしてもらいたい。
僕は考えるのが好きである
(最近は“自分で考える”ということはかなり難しいことだと考え始めている)。
決して頭はよくないが、頭を使うのは好きだ。
ちょっと違うが、普段から自分で下手の横好きだと評している。
しかし下手でも上手でも(たぶん)好きなところというか惹かれているところはそう大差ない。
何かを発想したり発見した瞬間、
分からないものが分かっていく過程、
想定しえなかった本質的(と思えるよう)な問いを獲得できたとき、
そのようなときの興奮や高揚は何事にも代え難い。
それはつまり僕の世界が刷新される(されつつある)ことであり、
これは一度体験したら何度でも体験したくなるものである。
いわゆる、やめられないというやつ。
これはほんとうに強力な体験なのだ。
しばしばそのものを体験するよりも、それについて考えを深める方がよっぽど強烈なことがある。
作中で橋場くんはこう言う。
- 北極のオーロラを見たかったけれど、
- それよりも、その現象について書かれた専門書を熟読する方がずっとオーロラを体験できるだろう。
- 僕は「体験」とはそういうことだと思っている。 (P85)
共感する。
一応言っておくけど、これは視座(ひらたくいえば世界の見方というか感じ方)の違いである。
凍てつく寒さの中、神秘的に映るオーロラの下に身を置いて「おぉ、ほんとうのオーロラだ」と言ってこその体験ってものだろう、と思う人は思えばいい。もっともだ。語義どおり。
しかし体験するとはどういうことだろう。
旅行に行って観光名所で楽しげに写真をとることが、果たしてその場所を体験したということになるのか。
ならないと思う。
それよりはその場所について勉強して想像して考えたほうが、よっぽどその場所を(うまくいえないけど)身近に感じることができる。
橋場くんはそういうことを言った(のだと思う)。
楽しげな写真をとるような旅行は、非日常な楽しい時間を過ごせれば場所はどこだっていいんだから、そういう楽しみ方にけちをつけるわけではない。
それに実際に身をもって体験したほうが多くの情報を得たり、頭を含めた身体が刺激されることも十分に認めている(どちらかといえばそれを重視している)。
でも僕がいいたいのは、頭で感じることを不当に評価してほしくないと言ったら言いすぎだけど「そういうこともあるんだな」くらいには思ってほしいということだ。
とにかく考えを発展させようと頭の中で渉猟することはとても楽しい時間だ。かけがえのない時間といっても言いすぎではない。
そんなことを『喜嶋先生の静かな世界』は語りかけてくれる。
僕は学者でも研究者でもない。建築構造設計という実務者であるし、世間的なくくりではサラリーマンということになるだろう。
なので、学者や研究者の方々よりは、沈思黙考する時間も少ないし、論理的整合性を追究する度合いも低い。でも全く無いというわけではない。
僕にはこれくらいのバランスがいいような気はしている。
もともと僕は学問や研究も(たぶん本当の意味ではしたことがないけど)好きだが、かといってそこに没頭したいというわけでもない。
やっぱり実際はどうなのか、というのが気になる。
それはいわゆる学問や研究と現実の差異がどうなのかというだけでなく、世間とはどういうものなのかというのが気になる。
たとえば喜嶋先生はことばをコンテンツのみで捉えるけど、僕は他の多くの人と同様、コンテンツよりはるかに優先してメタレベルでとらえる。
つまりことばに乗った感情をもって、そのことばの意味をとらえる。だから同じことばでも違う意味になるし、違うことばでも同じ意味になる。
喜嶋先生は論文や議論の場だけでなく、ふだんから感情をことばの意味に考慮しない。
しかし(少なくとも現代日本社会の大部分の)実際は、そうではない。
だから僕はそのようにことばをとらえ、観察している。
分かりたい。メタレベルでのコミュニケーションが意味しているところを。
それは本を読んだらいろいろと書いてあって読むことはできるけど、分かる段階には至らない。
分かるにはもっといろいろな人や世間を“体験”する必要がある。たぶん。
でも、そうやって世間につかっているうちに僕と世間の距離がどんどん近くなってくる。
分かるには対象を相対化するためのある程度の距離が必要だと考えているけど、その距離を侵している気がしてならない。
何となくの自覚はあっても、距離の離し方が分からない。それが近くなっているということの意味するところともいえる。
冒頭に言った、身体が洗われて気分も洗われた、という意味は久しぶりにその距離を認識できたように思えたからだ。
《つけたし》
単純に好きな話でもあった。僕は(悪い意味で)まじめな人間だから、社会的にこうしたほうがよさそうだとか、どうやらこの人たちはこうしてほしいと思っているようだ、ということをすべきこととして実行して生きてきたし、今もそうすることは多い(笹井さんにも、おまえは固すぎる、としばしば言われる)。決してそうしたくないわけではないけど、自分でも気を使いすぎだと思うことがある。たぶんこの気の使い方をできる人間は少ないだろうなとも思う。僕を知っている人は「そんなに気を使っているのか?」と思うかもしれない。僕はこう答える。「そうだ。でも結果は別だ。気を使っているからといって、気が利くと思われるとは限らない。よく言うでしょう。ほんとうに気が使えるってのは…」「分かった。もういい」まあ、そういうことだ。けど、この本を読むと「そう。僕はほんとうは率直にはこう思っているんだ」と共感するところが多々ある。でも年を重ねるうちに、どうやらそうでないほうがよい、と自分で勝手に圧力をかけてしまうのだ。それは間違っているわけではないが、適度な圧力をかけるのは難しい。だいたいかけすぎる。そういうところを、そんなにやりすぎなくていいよ、と語りかけてくれた物語でもあった。森博嗣さんといえば、5年くらい前にS&Mシリーズを一気に(たしか)10冊読んでとてもおもしろかった記憶がある。真賀田四季はまさしく天才のひとつのかたちだった。それ以後もちらちら著作を読んでいたけど、今回のは最初の出会い以来の良き本だった。