僕ももう28歳なので、まわりには結婚している人も多いです。僕もそのうちには結婚すると思います。いつか分からないけど、そのときは確実に近づいてきています。
だから年々結婚というものについて考えることが多くなってきました。
考えるのはよいのです。
しかし性格とさまざまな個人的経験が原因で、どうやら(一般的には)歪んだ結婚観が形成されてしまったようです。
あくまで “一般的に” であって、僕自身が歪んでいると思っているわけではありません。
どんなものかとえいば、
僕は結婚するのはだいたい誰とでもよく、
別に妻は一人でなくとも複数でもよい、つまり一夫多妻でもよいと思うようになっているのです。
そしてそれをいくつかの場面で発言してしまっています。
ずいぶん軽薄なことばにきこえるだろうけど、まったく軽薄ではありません。
僕を知っている人なら僕が軽薄でないことも知っているだろうと思います。
でも大いに顰蹙(ひんしゅく)を買い、軽蔑されることばを自分が発していることも分かっています。
だから僕は説明をこころみます。
誰でもよいというのは、
結婚して自分のいろいろな世話をしてくれる女性がいて、子供ができれば妻は誰でもよいという意味の誰でもよいではありません。
そもそもそれは世話をしてくれなきゃだめだし、子供ができないとだめだから誰でもよいということになっていません。
そうではなく、僕はたいがい誰とでもそれなりに愉快にやっていける自信があるから誰でもよいのです。
もちろん相手も一緒に。
愉快にやっていける自信、というものをもう少し正確にいうと、最初は不快であったことも愉快なことに読み替えていく能力に対するそれなりの自信というものです。
そうするとだいたい容姿不美人だったり性格不美人でもよいのか、と問われます。
もちろん構いません。
相手に本当にその気さえあれば、おそらく僕は心打たれて不美人も美人に見えるようになります。
あるいは僕にその気を起こさせるような女性は、僕には確実に美人に見えています。
美人かどうかが問題ではなく、美人に見えるかどうかが問題なのです。
美人に見えるかどうかは、その人の素晴らしいところを発見できるかどうかにかかっています。
だいたいの人にそれぞれにいいところがあります。
僕は履歴書の特技欄に書いてもいいくらい「他人のいいところを発見すること」が得意なので、僕の目に一瞬たりとも美人に映らない人は非常に少ないです。
そういう意味で構いません。
それに誰と結婚したって、すれ違いも憎み合いも理解不能もあるだろうから(ごくまれにない人もいるかもしれない)、そこを求めても仕方がないと思うのです。
だから、不快を愉快に読み替える能力が必要なのであって、それは相手ではなく自分に依存しています。
しあわせ(だったと思えるよう)な結婚生活が送れるかどうかは相手ではなく、自分によっています(実際は相手ももちろん大きいけど、そう考えています)。
だから誰でもいいのです。
「すべて何かの一部で、一部が全部になりうることに僕たちは気づかない。いとしい理由を見つけたのなら、見失わないようにしよう。そんな点をひとつ見つけるのは難しくなかっただろう?」
と『イチブトゼンブ』で稲葉さんは歌っているわけですが(僕の意訳ですが)、僕もおおむねそう思っています。
少し伝わりましたでしょうか。
買ってしまった顰蹙はお返しできたでしょうか。
まだ全然か。。。
まあ仕方がありません。
でも、僕がちょくちょくつい言ってしまう内田センセのことばもここまでお読みになってくれたのなら少し分かっていただけるのではないかと思います。
先日も発言してしまい、顰蹙を(おそらく)買ってしまったことばです。
「異性が10人いたらそのうち3人とは『結婚できそう』と思えるのが成人の条件であり、『10人いたら5人オッケー』というのが成熟した大人であり、『10人いたら7人はいけます』というのが達人である」
これをいうと、こいつは何を言っているんだという空気になります(笑)。。。
だからそのあとに続く「Someday My Prince Will Come.というようなお題目を唱えているうちは子どもである」ということばはさすがに言わないようにしています。
これは内田センセがブログに書いていたものなのですが、僕がおおむねそう思っており、それを威勢のいいことばで言われているのでついつい引っ張ってきて言ってしまうのです。そしてついつい顰蹙も引っ張ってくるのです。
一夫多妻もいいいなどとのたまうのも同じ理由です。
僕はだいたい誰とでもそれなりに愉快にやっていく自信があるので、ごく素朴にそれを一人の妻とだけの間に閉じ込めておく必要はないじゃないかと思うからです。
しかしこればかりは現実的にはどうしようもありません。
経済力もない。制度もない。度胸もない。甲斐性もない。魅力もない。よって無理。
となるのですが、無理は無理でも僕は形としては別に悪くないと思っています。
これもおおいに顰蹙を買います。
でも最近気づいたのですが、顰蹙を買うのはあながち気分の悪いものではありません。
なのでおそらく、これからも顰蹙を買い続ける気がします。
これを聞かされるかもしれない周囲のみなさま、膝元には顰蹙をご用意ください。
求、顰蹙。
(ひとつ心配なのは、将来の自分から顰蹙を買いそうなことです。まあそれもいいけど。)
最後に。僕の場合は、だいたい誰でもいいのですが場所の強い希望があるのです。
これ言っとかないとね。
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