松田龍平サン、宮崎あおいサン主演の辞書をつくる話です。
原作は三浦しをんさんの小説。
映画の監督は石井裕也サンでなんと僕と同い年(1983年生まれ)です。
昨日の夜、大阪ステーションシネマでみてきました。
辞書をつくるというとても地味で牛歩で非生産的(と認識されている)な事や
それに情熱を傾ける人に対するオマージュとしての物語、と感じました。
映画で描かれる作業としては地味で単調な辞書製作。
こんなの機械やコンピューターにプログラムさせてやらさればいいんだよと思う方、
それは合っているところもあるけど忘れないでほしいことがあるんです。
その機械やコンピューターのプログラムをつくるのも人の作業です。
どこかで人が膨大な暇と手を尽くさないとものはつくられないのです。
膨大な暇と手を尽くすことを、情熱を傾けるといいます(たぶん)。
そう思っておいて悪いことはないでしょう。
僕は小さいころ(小学生や中学生のころ)、
辞書をひくだけではなく読んだくちです。
読んだっていっても拾い読みですけど。
「世界にはこんな感情(言い表し方)があるのか」とか、
「こんなことばを使ってみたいなあ」とか子供心に思ったものでした。
どんなことばだったかって、残念なことに今は思い出せません。
今でも小学生の授業では辞書の引き方を勉強するんでしょうか。
ことばの意味はネットや電子辞書で調べれば事足りるのですが、
ことばだけでできたことばの世界に身を浸し、巡回し、彷徨し、渉猟するのは
やっぱり紙の辞書の方が有用な気がします。
紙の方が身体的なつながりが強いというか。
(抽象的にごまかした言い方で恐縮ですが)そう思います。
いや、分からない。
今の子たちは僕たちが頁を繰るように、
画面にタッチして、シャッ、シャッとことばの世界をあてもなく歩き回れるのかもしれません。
だとしたら、
紙の辞書はその時代のことばの物質としての記録書という意味以外はなくなってしまいます。
それは趨勢として避けがたいように思います。
出版してもペイされないし、されるのにかかる時間も長い。
事業としては成り立たない。
そこでどうでしょう。
辞書を編纂するのは国(かどこかのお金持ち)の(慈善)事業にするというのは。
給料は安いけど、
ことばの海に埋もれていたいという人たちに、
ちょうどこの映画の登場人物たちのようにやってもらえば。
そんな辞書はきっとおもしろくて、
意外と売れるかもしれません。
僕は買います。
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