どうでもいい人にとってはどうでもいいことなのだろうけど、
とあらかじめ断っておきます。
「ストーリーをしっかりさせないと」
とか
「どういうストーリーになっているわけ?」
とか。
最近はいわれなくなりましたが、
初めのころは自分がやったことを上司に説明しようとするとしばしばこう言われました。
この“ストーリー”ということば、僕の周りだけではなく、
わりとみなさんが選択することばのように思います。
僕はこの“ストーリー”ということばにずっと違和感をもっています。
ので、そのことについて書きます。
言いたいことは「話の筋道を矛盾なくしっかりしておきなさいよ」ということ。
ここは疑いがない。
言いたいことはまったくその通りでよく分かるから、
「いや、その“ストーリー”ってことばはおかしいと思いますよ」
なんて言うことはない。言ってもいいことはない。
けどあえて書いてみる。
それをなぜ“ストーリー”という語に託すのか。その選択は適切なのか。
“ストーリー”はつまり“物語”であって、それは虚構性を含むもの、というのが僕の認識。
つまりフィクション。
でも、構造設計はフィクションではない。
実際の建物に生じている応力が応力解析通りでなくとも、
実際の建物で存在する柱や梁の耐力が耐力式通りでなくとも、
建物は壊れない。
数値には余裕や幅というものを見込んでいるし、
その余裕の前提となる条件には十分に留意しているし、
実例としてたくさんの実績があるから。
だから、ある数値が計算通りでないといっても虚構の要素にはならない。
中にはどうにも不明な点ももちろんある。
しかしそれは安全性への影響がなるべく小さいところに遠ざける。
逆にいえば、安全性に影響が大きい要素には不明点を残さない。
よって、構造設計はフィクションではない。
なので僕は“ストーリー”ということばに違和感を覚えるのです。
そもそも安全性がフィクションでもって担保されてもいいのか、というのもあります。
じゃあどのことばに託せばよいのか。
“話の筋道”、もちろんいい。問題ない。僕も使う。
“ロジック”、個人的には何か相手をやりこめるニュアンスを感じて好まない。
東電側のロジック、とか。
では“論理”、これでもいい。
いいけれど、僕にとって論理は高尚で孤独なことばだ。
古典となっている哲学書や数学の世界こそ論理的であって、
普段の(世俗的な)設計がそこまで強靭に構築されているかといえば僕はそうは言えない。
よって微妙。
“理屈”はどうか。これでもいい。僕も使ってしまう。
だが“理屈”は屁を呼んだら“屁理屈”になる。
これは無理な筋を無理やり通そうとしていたり、
こんな話の立て方はほんとうは嘘っぱちよ、
というどこかニヒリズムというか虚無的な雰囲気を漂わせていて本当はよくない気がする。
“理路”、理路整然の理路。
不思議なことに理路整然はみんなが知っていても、
理路という語を単独で用いる人には出会わない。
内田センセイが著書で繁用するので僕も字を書くときには使うようになった。
けど、口語では使わない。
浸透していないことばを使って、気取っているように思われそうで嫌だから。
でも実が僕はこの語がなかなかいいと思っている。
“理屈”というほど斜に構えてないし、“論理”というほど高尚ぶっていない。
少しずつ周りに普及、浸透させていきたいと思う。
思うけどなかなか。
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