- 「キミは女のくせに一人でこういう店に来るんですね」 (中略)
- 「はあ」 (中略)
- 「あのころ、キミはおさげにしていたでしょう」
- 「はあ」
- 「店に出入りするキミに見覚えがあったので」
- 「はあ」
- 「キミは今年三十八になるんでしたね」
- 「今年いっぱいはまだ三十七です」
- 「失敬、失敬」
- 「いいえ」
- 「名簿とアルバムを見て、確かめました」
- 「はあ」
- 「キミは顔が変わりませんね」
- 「センセイこそお変わりもなく」
- 名前が分からないのをごまかすために「センセイ」と呼びかけたのだ。以来センセイはセンセイになった。
(P11)
- 「(前略)楽しかったです」とわたしは言った。
- 「ワタクシも、楽しかったです」ようやく答えてくれた。
- 「また、誘ってください」
- 「誘います」
- 「センセイ」
- 「はい」
- 「センセイ」
- 「はい」
- 「センセイ、どこにも行かないでくださいね」
- 「どこにも行きませんよ」
(P265,266)
川上弘美『センセイの鞄』(文春文庫)より。今年いっぱいは37歳のツキコとツキコよりは30ちょっと上のセンセイの物語です。
川上弘美さんを読んだのは初めてですが、いい出会いでした。
慕情といおうか、愛情といおうか、恋情といおうか。いやどれでもないけど、どれでもある。
切ないような、哀しいような、でも楽しいような、どこかほっとするような。
描こうすればするほど、そこで描かれていることは遠ざかってくるようなことが描かれています。
雰囲気とでもいうのでしょうか。もっと他にいいことばがありそうですが。
僕たちが単独の語彙では(けっして)言い表せないことを、情感として読者に生起させる。これこそが物語というもののひとつの大きな力だと思っていますが『センセイの鞄』にはそういう力がありました。
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