笹井さんが逮捕されてしまうという昨日の事件に関連してはいろいろとまだまだ思うところがある。
「公」というものについてがそのひとつだ。公共の「公」である。
今後、マスコミや警察や市民や議員や市職員など、様々な立場の人たちがこのことについて様々なことを言うはずだ(市職員は求められない限り、自らは口を開かないかもしれないが)。
警察は発表できる事実(とみなしたもの)を発表し、それをマスコミが(時には少なからぬイデオロギーをもって)世に送り届け、それを受けた市民はますます市に対して不信感を募らせるかもしれない。議員は行政を批判する格好の材料だと思うかもしれない。市職員は面倒なことになったと思うかもしれない。思わないかもしれない。
様々な立場の人が様々に、思うにとどまらず発言するだろう。
ここでの発言は、内輪で酒を飲んでいるときにする発言は含まない。ここでは、マスコミに求められて発言するとか、求められていないが(今この僕のように)ブログに何か表すとか、市民の耳があるところで市職員が発言するとか、いわばそれが触れる数の多寡は別として他の立場や身分に向かって発言することをいっている(そういう意味では内輪の中での話がそうでなくなる場合も同じになる)。
いわゆる「公共の場」にのせられる発言である。
では公共の場とは何か。
それも気になるところではあるが、ここでは「「公」的に発言するとは何か」ということについて、いまだに整理どころか咀嚼すらできていないながらも、僕に大きな示唆を与えてくれた高橋源一郎さんが「午前0時の小説ラジオ」で発言した「公と私」を転載して改めて考えたい。「午前0時の小説ラジオ」とは高橋源一郎さんがTwitter上で不定期にある日の午前0時から行う連続ツイートで述べる主張(?)のことである。
途中からの引用だが(それでも長いと思われるかもしれない)、高橋さんはこう書いていた。これは2010年10月11日午前0時から書かれたものである。尖閣諸島の問題が特に取り上げられていたときだ。
万分の一以下の確立だと思うが、これを読んで「公的に発言する」ということについて考えるきっかけとなる方がいるなら、ありがたいかぎりである。
「尖閣」問題のような、あるいは、「愛国」や「売国」というような言葉が飛び交う問題が出てくると、ぼくは、いつも「公と私」はどう区別すればいいのだろうか、とよく思う
「公共」というような言葉を使う時にも、自分で意味がわかっているんだろうかと思う。そのことを考えてみたい。
この問題について、おそらくもっとも優れたヒントになる一節が、カントの『啓蒙とは何か』という、短いパンフレットの中にある。
それは「理性の公的な利用と私的な利用」という部分で、カントはこんな風に書いている。
「どこでも自由は制約されている。しかし啓蒙を妨げているのは…どのような制約だろうか。
そしてどのような制約であれば、啓蒙を妨げることなく、むしろ促進することができるのだろうか。
この問いにはこう答えよう。
人間の理性の公的な利用はつねに自由でなければならない。
理性の公的な利用だけが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである。
これに対して理性の私的な利用はきわめて厳しく制約されることもあるが、これを制約しても啓蒙の進展がとくに妨げられるわけではない。
さて、理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。
それはある人が学者として、読者であるすべての公衆の前で、みずからの理性を行使することである。
そして理性の私的な利用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである。
公的な利害がかかわる多くの業務では、公務員がひたすら受動的にふるまう仕組みが必要なことが多い。
それは政府のうちに人為的に意見を一致させて公共の目的を推進するか、少なくともこうした公共の目的の実現が妨げられないようにする必要があるからだ。
この場合にはもちろん議論することは許されず、服従しなければならない。」
ここでカントはおそろしく変なことをいっている。
カントが書いたものの中でも批判されることがもっとも多い箇所だ。
要するに、カントによれば、「役人や政治家が語っている公的な事柄」は「私的」であり、学者が「私的」に書いている論文こそ「公的」だというのである。
ぼくも変だと思う。実はこの夏、しばらく、ぼくはこのことをずっと考えていた。
そして、結局、カントはものすごく原理的なことをいおうとしたのではないかと思うようになったのだ。
たとえば、こういうことだ。
日本の首相(管さん)が「尖閣諸島は日本固有の領土だ」という。
その場合、首相(管さん)は、ほんとうにそう思ってしゃべったのだろうか。
あるいは、真剣に「自分の頭」で考えて、そうしゃべったのだろうか。
そうではないことは明白だ。
首相は「その役職」あるいは「日本の首相」にふさわしい発言をしただけなのである。
自民党や民主党や共産党や公明党やみんなの党の議員が、政治的な問題について発言する。
それが「問題」になって謝ったりする。
その時、基準になるのは、彼らの個人的な意見ではない。
「党の見解」「党員の立場」だ。それらを指して、カントは「私的」と呼んだのである。
国家や戦争について話をするから自動的に「公的」や「公共的」になるわけではない。
しかし、それを「私的」と呼ぶのはなぜなのだろう。
それは、その政治家たちの考えが一つの「枠組み」から出られないからだ。
そして、その「枠組み」はきわめて恣意的なのである。
「尖閣」問題を、日本でも中国でもない第三国の人間が見たらどう思うだろう。
「そんなことどうでもいい」と思うだろう。
国家を失った難民が見たらどう思うだろう。
「そんなくだらないことで罵りあって、馬鹿みたい」と思うだろう。「私的な争い」としか彼らには見えないはずだ。
では「私的」ではない考えなどあるのだろうか。
なにかを考える時、「枠組み」は必要ではないだろうか。
カントの真骨頂はここからだ。
「公的」であるとは、「枠組み」などなく考えることだ。
そして、一つだけ「公的」である「枠組み」が存在している。
それは「人間」であることだ。
『啓蒙とは何か』の冒頭にはこう書いてある。
「啓蒙とは何か。それは、人間がみずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。
未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。
人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。
だから、人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。」
「自分の頭で」「いかなる枠組みからも自由に」考えることの反対に「他人の指示を仰ぐ」ことがある。
カントは別の箇所で「考えるという面倒な仕事は、他人が引き受けてくれる」とも書いた。
それは、既成の「枠組み」に従って考えることだ。それが「公的」と「私的」との違いなのである。
国家や政治や戦争について考えるから「公的」なのではない、実はその逆だ。
それが典型的に現れるのが領土問題なのである。
「日本人だから尖閣諸島は日本の領土だと考えろ」と「枠組み」は指示する。
同じように「中国人だから釣魚島は中国領だと考えろ」と別の枠組みも指示する。
もちろん、ぼくたちは、思考の「枠組み」から自由ではないだろうし、いつも「人間」という原理に立ち戻れるわけでもないだろう。
知らず知らずのうちに、なんらかの「私的」な「枠組み」で考えている自分に気づくはずなのだ。
「公」に至る道は決して広くはないのである。
最後に少し前に出会ったエピソードを一つ。
深夜、酒場で友人と小さな声で領土問題について話していた。
あんなものいらないよ、と。すると、からんできた男がいた。男はぼくにいった。
「おまえは愛国心がないのか。中国が攻めてきた時、おまえはどうする。おれは命を捨てる覚悟がある」
だからぼくはこう答えた。
「ぼくには、家族のために投げだす命はあるが、国のために投げ出す命なんかないよ。
あんたは、領土問題が出てきて、急にどこかと戦う気になったようだが、ぼくは、ずっと家族を守るために戦ってる。
あんたもぼくも『私的』になにかを大切に思っているだけだ。
あんたとぼくの違いは、ぼくは、ぼくの『私的』な好みを他人に押しつけようとは思わないことだ。
あんた、愛国心が好きみたいなようだが、自分の趣味を他人に押しつけるなよ。うざいぜ」
とても困難ではあるが、可能な限り「枠組」から自由に自分の頭で考えて発言すること。少なくとも、枠組みから自由ではないという自覚をもって発言すること。それはつまり、発言を私的なものとして公的な場に出すことだ。それが「公的」である、あるいはそれに近づくということではないだろうか。
「公的に発言する」というのは、決して自らの立場に常に立ち返り周囲の人たちに配慮して(というか空気を読んで)差し障りなく発言することが第一義では断じてない。それは周囲の人たちや空気にとって私的でありこそすれ、本人にとって私的ではない。そしてそもそも“周囲の人たち”や“空気”は、当然個人ではないから私的たりえない。だから第一義ではないのだ。だが、現実的には、このようなふるまいはわれわれ多くの普通の人にとって必要なことではある。けれど繰り返すように、「公的に発言する」ということの意味を担保しているものではないのだ。
僕の目には、笹井さんは(本人は無自覚だと思うけど)現実と折衝しながらも、「公的に発言」していたように映っていた。今、どんなことを考えているのだろうか。まあ寝ているか。