美術館に行ったときのような、と言ったらまた分かりにくいかもしれないけど、僕にはそのように感じられた。
昨日、Zepp大阪で行われたACIDMANのALMAツアーのライブに行ってきた。ACIDMANのライブは初めてだ。ここでは、「よかったよね」とか「あの曲もやってほしかった」とか「Dr.のイチゴさんのMCがグダグダだった」(いつもそうなのか?)といったライブの内容自体についてではなく、にわかファンだからこそ語れる他のライブとの違いについて書いてみる。
なぜ美術館に行ったときのように感じたのか。
美術館はその名のとおり美術品が飾ってある建物だ。だから本来的には、展示されている美術品を観賞するために行くところだ。けれど往々にして、展示物ではなく美術品が展示された建物を観賞(あるいは体験)しに行っていることがある。なぜなら美術品よりも建物のほうが分かりやすいからだ(分かりやすいというのは、理解しやすいというのではなく、知覚し感情を喚起しやすいという意味)。
昨日のライブもそのような感じだった。
僕は今回のライブに行くことが決まってからACIDMANを聴き始めたクチで、年季の入ったファンの人たちとは昔の曲や定番の曲に対する親しみの度合いが全然違う。だから分かりやすい曲(勢いのある「飛光」なんかは特に)は何となくその勢いに任せてのっていけるけど、そうでない曲(みんながただ聴き入るような曲)はただ聞いているだけになってしまう。
それだけなら、他のよく知らないバンドを聴きにいってもよくあることだ。でも僕が「美術館のような」と感じたわけにはもうひとつある。
それはACIDMANの曲に対するスタンスの取り方の違いによっている。
Dr.のイチゴさんがMCの中で「自由に感じて、たくさん感動してください」というようなことを言っていた。これはまったくおべんちゃらではなく、たぶんACIDMANのスタンスなのだと思う。ACIDMANは「一緒に盛り上がっていきましょう」とか「一緒に歌おう」というよりも、“私たちはここに精一杯の音楽を発生させるから、聴いてください。ただ聴いてみてください”という感じなのだ。
ひとつの曲をみんなで共有するというよりも、個人個人でそれぞれで保有する、そんな感じ。
僕が好んで行くヘヴィメタルやハードロック、または長渕のライブはそうではなく、「俺とお前らでここにライブを作り上げようじゃないか!」といった感じで、正反対といえないこともない。いつもはバンドと客で“俺たち”なのだが、ACIDMANでは“俺たち”と“みなさん(=客である僕たち)”なのだ。
これがまさに音楽(=美術館)という場所(フィールド)でACIDMAN(=美術品)を観賞したような、鑑賞者と観賞対象といった印象を僕の中に生み出したように思える。
美術品は見た目よく分からない。絵や彫刻をみても自然にはだいたい何も思わない。けれど、分かれば劇薬のように効いてくる。ACIDMANにはそんなところもある。
ある曲では、ステージの後で映像が流されたが、あれをみても何も思わない。いや、思わないわけではないが、取るに足るような衝撃的な感情はわき起こってこない。そんな中でも「ALMA」という曲を演奏する前にはVo.のオオキさんが曲について(ALMAの意味、曲の背景など)説明してくれたのだが、その説明を受けての「ALMA」を聴くと、僕の中で曲が途端に大きく響いて感動を生み出してくれる。僕にとってはあそこがハイライトだった。
そんなわけで、僕にとっての初のACIDMAN体験は、ひと言でいえば“美術館に行ったような、未体験のライブだった”ということになる。
だから、お客さんがなんとなくパトロンにも見えた。
実はライブの1週間くらい前に、僕は財布を失くしていた。当然財布の中に入れていたチケットも失くした。今も見つかっていない。だからチケットを再度購入したのだけど、購入をmixiのACIDMANコミュニティで行うという僕にとってはかなりの離れ業だった。いろいろな購入の仕方があるものだと感心してしまった。
ライブの後は、ライブに誘ってくれたナカイさんと一緒に西区靭本町にあるRegalというカレー屋に行った。カレーづくりには野菜の甘みが大切で、そいつを引き出すには煮込み方が大切らしい。なるほど。もちろん只のカレー以上においしかった。