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電子の海にことばを放流するときにどうしているのかは知らないけど、
僕はいつも固有名の宛先を想定して書いている。
明示はしないけど。
“電子の海”は高橋源一郎さんがいったことばを借用してきたのだけど。
安養寺くんにすすめられてiphoneで漫画『鈴木先生』を読みました。
安養寺くんは僕が(必要以上に)理屈っぽいし、(変に)語りたがりなところを知っているので、
僕の好みに合うでしょうということですすめてくれたのです。
でも僕は(必要以上に)理屈っぽいところ、というか弁解めいているところを
だいぶ直したいと思っています。
思っているけど、未だ直る見込みは立ちません。
ほら、こういう書き方がもうすでにそうなんですよね。
閑話休題。
僕はいつも固有名をもった宛先を想定して書いています。
それは複数のこともあります。
いつもは明示しないけど、今回はひとつあらかじめ断ってみよう。
高校生のときの自分を宛先に想定してみます。
高校生の自分がネットで偶然にこの文章を見つけたという設定です。
書いた後に読み返してみたけど、やや気持ち悪いです。
『鈴木先生』は、
中学校の先生である鈴木先生が自身の生徒に弁をふるう場面が最大の魅力のひとつです。
その弁のふるい方がなかなか鮮やかです。
鮮やかさ(説得力)を演出する(蔵する)ために、
ある程度の長さを持って鈴木先生は弁じます。
しかも、たぶん中学生の僕では身体的に身についていない語彙や理路で。
『鈴木先生』が掲載されていた雑誌が「漫画アクション」という青年雑誌だったそうなので、
それでも、むしろそれのほうがよかったんだと思います。
安養寺くんがいったとおり、なかなかにおもしろかったです。
1~11巻まで空き時間を使って一気に読んでしまいました。
iphoneは文字が小さいし、電子機器画面なのですごく目が疲れました。
さて、どう思ったか。
僕は、これを読んだ誰かはどう思っただろう、と思いました。
その誰かのひとりが昔の僕だったのです。
僕は昔から理屈が好きでした(よく覚えてないけど)。
また、箴言も好きでした。
中学や高校のころは小説より漫画の方が圧倒的に読む量が多かったのですが、
ストーリーよりも登場人物がいった一言の方が圧倒的に印象に残るタイプでした。
スラムダンクで田岡監督が魚住に言ったことばとか。
だからもしも高校生の自分が読んだら、
今でも『スラムダンク』のセリフを折に触れて思い出すように、
『鈴木先生』のセリフも思い出すことになったでしょう。
― 想ってるだけでいいじゃない…
― どうしても伝えたかったら一度そっと伝えて…
― それでもういいじゃない…
― 誰が…誰が好きだっていいじゃないか!
とか。
― だけど今の学校教育は我々が普段思っている以上に
- 手のかからない子供の心の摩耗の上に支えられているんだ
とか。
僕も高校に入った時からはもう15年経つので、
あの頃よりはオトナたちが言うことに対して移り気もしないし、動揺しなくなりました。
これは感性が鈍くなったというのではなく、いい意味で使っています
(たしかに鈍くなってはいるかもしれないけど、まあ仕方がない。
寄る辺が昔よりは見えるようになったというかそんなかんじです)。
あなたはどう思いましたか(高校生のおまえです)。
僕は自分の高校生のころをほとんど覚えてないけど、
想像するに
“鈴木先生の言っていることには目を開かれるし、論理だっているし、
ただの理屈じゃなくて相手の状況や心情も慮っているし、文句はない。
でもなんかちょっと…”
といったところでしょう。
そうだと思うよ。
いや、違っているかもしれんね。
でもひとつだけ断言できるのは、おまえは人気投票で鈴木先生には入れないということです。
なぜだか意地悪で言ってやろう。
それは教えられているからです。
おまえはつねに自分の気持ちを言い表すことばやふるまいや気持ちの真偽を探しているくせに、
探されて提示されたものに対して受け取るのを少し躊躇する。
鈴木先生が(おまえにとって)あまりにも鮮やかに弁を講ずるから、
探していたものとはちょっと違う気もするけど、これが正しいのだろうと思えてくる。
でも逡巡する。
でも一方で信じる強さを醸成するために逡巡を振り切りたい。
面倒だ。
15年くらい経ってもおまえは面倒なままです。
心配ですか。不安ですか。
しかしどうやらそんなに心配しなくてもいいみたいです。
鮮やかなものに容易に近づかない、身を委ねない、
そうすれば悪い結果をもたらさないようです。
念のために言っておくけど、いい結果ももたらさないということではありません。
もたらさないこともあるけど、もたらすこともあります。
だからそのままでよろしいです。
その代わり(というわけでもないけど)、
粘り強く、断続的にでも自分の頭で考えて、
考えて決めたことを少しずつでもどれだけ時間がかかっても実行しようとしてください。
間違えないでください。
自分で考えて実行しようとしてくれと言っているのであって、
自分独自に想像して行動に移せといっているのではありません。
世間から独創的だといわれるようなことをするのはおまえが想像しているように、
とても難しいことです。
でも、それと同じように、自分の頭で考えて行動するのもとっても難しいです。
世界は、ふつうに生きているだけで、
求めているものも求めていないものも断りもなしにおまえの中に置いていきます。
これには気をつけなければなりません。
もちろん置いていかれたもの自体がわるいのではありません。
求める求めないに関わらず、それらから影響を受けることも悪いことではありません。
だってそういうものでしょう。
しかし、置いていかれたものの中にはよく出来たふうの出来合いのものも多くて、
ついついそれを使ってしまうのです。
くどいけど続けます。
使ってしまうのも悪くない(少し悪いけど)。
何が悪いのかといえば、出来合いのものを使うことに慣れて、
自分でこしらえることをやめてしまうことです。
なぜまずいかって、これは言い方が難しいし、うまく言える自信もないけど、
そうすると生きる力が弱まってしまうし、
生きる力が弱まると非常に苦しいからです
(生きる力とは何か、何が苦しいのか、
断ったようにうまくいえないので出来合いのものを使いました)。
『鈴木先生』から何を得てほしくないか。
それは鈴木先生が説いた理路です。
鈴木先生が披瀝する言説はあまり流布されてないもので、
さらに全然むちゃくちゃじゃないから獲得したい、ヒントにしたい気持ちは自然かもしれません。
特に日夜探し続けている人たちにとっては。
けれどあれは、
生徒たちにあの語彙と理路と情熱を受容するだけのものを要求するし、
鈴木先生のように踏み切るだけの決心をもてるだけの努めが必要です。
要は漫画だから現実世界にやすやす持ち込まないようにと言っているわけではありません。
漫画をみくびるつもりは毛頭ありません。
15年後、あなたは先生ではありません。
周りに中学生はいません。あのような中学生は全くいません。
折にふれてよーく想像して、よーく吟味して、よーく自分の頭でかんがえて、
常日頃からまわりの世界を観察して、よーく準備して、あとは出たとこ勝負です。
そうしたら、結果は失敗もあるかもしれませんが、
あなた自身は失敗の構造外にいられると思います。
そうそう、最後に、
鈴木先生が漫画の中で対峙する様々な場面について自分だったらどうするか、
と考えるために僕がぜひとも読んでもらいたい
(というか何となくでも感じてもらいたい)文章があります。
マイケル・サンデルさんという政治哲学者の『これからの「正義」の話をしよう』という本と、
それについて触れた作家の高橋源一郎さんが書いた「午前0時の小説ラジオ」の『一度だけの使用に耐えることば』です。
このブログでも2年くらい前に書いたことがあるけど、
そのときはリンクを貼っただけなので途中までですが書き写して再掲します。
ではこれから、焦ってもいいけど、自分のペースでお願いします。
- ずっと宿題のように考え続けていることがある。
- 時々、解決しそうな気がして、思い出すけれど、また中座してしまう。
- そんなことがいくつもある。
- そんな、宿題のように考えづけていた、いくつものことが、
- 不意に繋がり、解決できたような気がする時だってある。
- でも、その時には、その先にまた、新しい問いが、顔を出すのだけれど。
- 今晩は、まず、マイケル・サンデルの「質問」から話を始めてみよう。
- サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』は、去年、ずいぶん取り上げられた。
- ぼくも読んだ。面白かった。
- 彼の巧みなところは、優れた「質問」を考え出したことだ。
- そして、そのことによって、僕たちを次の場所へと連れ出そうとする。
- でも、ぼくには、小さな違和感が残ったのだ。
- サンデルは、暴走する列車の運転士が、その先の二股に分かれた線路の上で、
- それぞれに工夫が仕事をしている時、あなたは、ハンドルをどう操作するか、
- と問いかける。あるいは、核爆弾を隠したテロリストからその場所を聞き出すために、
- 無垢の、彼の娘を拷問していいのか、と訪ねる。
- どうすればいいのか。答えは割れる。「正解」はないのである。
- 人間には守るべき事由がある、と考える者と、
- 人間には譲れぬ倫理がある、と答え者と、
- 倫理などない、もっとも不幸な人間を少なくするしか手だてはない、
- と考える者たち全員を満足させる「正解」はないのである。
- サンデルは、こういう例を出している。
- ぼくも好きな、ル=グインの「オメラスから歩み去る人々」という
- 短編小説の内容について問いかけたものだ。
- その物語はオメラスという町の話である。
- オメラスは幸福と祝祭の町、国王も奴隷も、
- 広告も株式市場もないし、原子爆弾もないところだ。
- この町があまりに非現実的で読者が想像できなくてはいけないからと、
- 作者のル=グインはオメラスについてもう一つあることを教えてくれる。
- オメラスの美しい公共施設のどれかの地下室に、
- あるいは、ことによると広々とした民家のどれかの地下食料庫かもしれないが、
- 一つの部屋がある。鍵のかかったドアが一つあるだけで、窓はない。
- この部屋に一人の子供が座っている。
- その子は知能が低く、栄養失調で、世話をする者もおらず、
― ずっと惨めな生活を送っている。
- この後は、直接、ル=グインの書いたものを読んでみよう。
- “その子がその部屋にいることを、オメラスの人々はみんな知っていた…
- その子はそこにいなければならないことを、誰もが知っていた…
- 自分たちの幸福、町の美しさ、親密な友人関係、子供たちの健康…
- さらに、豊かな収穫や穏やかな気候といったものまでが、
- その子のおぞましく悲惨な生活に全面的に依存していることを理解していた。
- もしもその子が不潔な地下から太陽のもとに連れ出されたら、
- その子の体が清められ、十分な食事が与えられ、心身ともに癒されたら、
- それは実に善いことに違いない。
― だが、もし本当にそうなったら、
― その瞬間にオメラスの町の繁栄、美しさ、喜びはすべて色褪せ、消えてなくなる。
― それが子供を救う条件なのだ”
― この時、「オメラスの住人であるあなた」はどうするのか。
― それが、サンデルの(同時に、ル=グインの)問いである。
― たった一人でも苦しむ人間がいる限り、繁栄は謳歌できない、と答えることもである。
― 子供を救い出すことによって、「オメラス」の他の住人たちの幸福を奪う権利はない、
― と答えることもできる。
― 「正解」は(たぶん)ないのである。
― だが、この問いには、どこかおかしいところがあるような気がするのだ。
― でも、それがどこなのか、わからなかったのである。
― ぼくが、このサンデルの問いへ感じた違和の理由がわかったのは、
― それからしばらくたって、次の文章を読んだ時だった。
― 鶴見俊輔さんの「ノートブック」に書かれたメモである。
― “ある母親のことをきいた。
― こどもが盗みをやめない。そのこどもに、こう言った。
― 「盗みなさい。そのあとで、わたしに知らせて」
― 知らされるたびに、母親は歩いていって、盗まれた相手に償いをしたという。
― 「盗みなさい」
― これは、このこどもに対するこの母の一回限りの状況から出てきたことばだ。
― 一度だけの使用にたえる言葉。
― それを知れば、十年は使えるというのとは、かけはなれている”
― サンデルの問い(と答え)と、鶴見さんの問い(と答え)は、どう違うのか。
― サンデルは、原理的に問いかける。そして、「正解」はない、という。
― 鶴見俊輔の「問い」はその先にある。「正解」はない。
― だが、「答えをどうしても出さなければならない時がある」のだ。
― では、「オメラスの住人」として、どうして、ぼくたちは、「正解」を出せないのか。
― それは、ほんとうは、ぼくたちが「オメラスの住人」ではないからだ。
― ぼくたちは、囚われの少女の顔を知らない。
― オメラスに住む自分の父や母や友人がどんな人間なのかも知らない。
― だから、「答える」ことができないのだ。
― それでも、ぼくたちには「答え」が必要な時がある。
― その時、ぼくたちは「一度だけの使用にたえることば」を使うしかないのである。
― 鶴見さんが書いている母親も、たぶんずっと「盗むな」と言ってきただろう。
― それは「正解」なのだから。
― だが、盗みをやめることができない子どもを見続けたあげく、
― ある瞬間、「盗みなさい」と言った。
― おそらく、その前でも、後でも、言わなかったはずのことばを。
― 「正解」ではなく、それと時には対立するように、
― 「一度だけの使用にたえうることば」がある。
― それは、具体的な関係の間で、ある瞬間、その時だけに通用することばでもある。
― 「倫理」とは、そのことばのことを言うのではないだろうか。
― それはサンデルの本には書いてはいないことだ。
― テレビのある討論番組で、
― 若者が「どうして人を殺してはいけないのですか」と問いを投げかけた。
― おとなたちははかばかしい答えを突きつけることができなかった、という事件があった。
― 「当たり前じゃないか」でも、「君も殺されるのはイヤだろう?」でも、
― 彼は納得しないだろう。
― 「正解はない」も変だ。
― 答えることができないのは、その青年とぼくたちの間に関係がないからだ。
― 関係がないから、そこには「正解」を捜す運動しかないのである。
― その頃、ぼくも、その青年に答えることばを持ってはいなかった。
― でも、いまなら、おそらく、こう答えると思う。
― 「ぼくは決めていることが一つある。
― もし、自分の子どもが殺されたら、その殺した人間を、裁判になど委ねず、
― 自分の手で殺したいと思っている。
― それが実際に可能なのか、ぼくにもわからない。
― そんなことがないことを祈るだけだけれど。
― その理由は、僕にも説明できない。
― もしかしたら、きみの親たちも、そう思っているかもしれないね」
― それが、ぼくの「答え」だ。
― もしかしたら、それさえいわないかもしれない。
― そんな思いが僕の中にはあり、
― もし「一度だけの使用に耐えうることば」がぼくにもあるとしたら、
― その思いから生まれるのかもしれない。
― 「正解」ではなく、「一度だけのことば」を、送り届けたい。
― そのためには、相手を見つめる必要がある。
― そうでなければ、そんなことばは出てこない。
― 「機の思想」という考えがある。
― ある、大切な瞬間を見逃すと、大切な何かを失ってしまう、という考えだ。
― 教育も、愛の技も、いつでも可能なのではない。
― それが可能な瞬間は、ほんとうに短く、
― それを見抜くためには、愛の感情をもって、見続けるしかないのである。
― 「倫理」もまた、その果てにしか生まれない。
― 「原理」によって、生きることはできないのである。